稲荷神社
同三十二年に、その石祠を基として改めて笠間稲荷社(茨城県)を勧請しようということから、住民の代表が笠間に向かったが、その道中、狐狸のいたずらによって潮来の宿に封じこめられ、身ぐるみ剥がれて追い返されてしまったため、ついに笠間に行くことができなかったという。
そして、最初の開墾地であるところの初富村(鎌ケ谷市)の鎮守豊作稲荷大明神・倉稲魂命を勧請したのであると伝えられている。
この初富村の稲荷大明神は、開墾会社出資者の一人である湯浅七右衛門が勧進したもので、その境内に建てられた記念碑には「抑々豊作稲荷神社ハ明治六年五月十五日ヲ以テ京都ハ伏見稲荷ノ写ヲ以テ名高シ。当時開墾始メニシテ実ニ草茅原野タリ。住民此ノ社ヲ崇拝スル事農務ノ神ト称シ、年古ルニ従ヒ益々区民ノ懇篤ナル事慈母ノ如キ感アリ。故ニ此処ニ記念碑ヲ建立シテ永遠ニ郷社ノ名ヲ止ムルナリ」と記されている。
大正二年に神社敷地および山林が住民二〇名の共有地として登記され、境内には植林が行われた。
昭和七年に社殿が新築され、翌八年には集落に電燈が初めてついたことなどもあって、村内には終日太鼓が鳴り響き、人びとは神楽を奉納して喜び祝ったという。
同十五年に前記二〇名の人達は、皇紀二千六百年記念として敷地・山林などを区の財産として寄付し、管理一切を区に委任して記念碑を建立した。約一二〇センチほどのその記念碑には、「大正二年以後弐拾名共有土地 今般弐千六百年祝典付当区無償譲渡請納 昭和十五年十二月二十日」とあり、集落内全世帯主の名が刻まれている。
この他、鳥居・狐像・燈籠などが奉献物としてあり、いずれも昭和になってから氏子および崇拝者によって奉納されたものである。
明治初期に十余三が、大正初期に御料地の開拓が始まったので、村内には未だ寺院は建てられていない。各家の宗旨によって隣村寺院の檀家になっている。
多い宗旨は真言宗で、高津原の千手院、次浦の永台寺があり、日蓮宗は栗源町沢の真浄寺を菩提寺とする家がほとんどである。このうち真言宗は、久賀大師と呼ばれる十善講に入っているため、十余三では赤池の公会堂に、御料地では飯笹入の公会堂敷地に巡拝のための弘法大師像が安置されている。