いろいろな民間信仰が盛んであった時代が過ぎてから誕生した村であるため、その数は少ないが、それだけに建立者の心が偲ばれるものである。
庚申塔 字赤池二八一番の一にある。板碑よう(高さ九一センチ)のもので、栗源町を経て佐原へ通ずる街道沿いにあり、かつては小さな塚の上に建てられていたものという。
碑の上部に月日と富士が描かれ「庚申塔 大正九庚申歳十一月十三日建之 願主石井亀吉世話人宮本栄次郎 勝又見知太郎 滝田庄一 塚本重遠 篠崎半蔵 平山安治」と刻まれている。
地蔵像 字餅田久保三六九番の二五にある。成田から小見川へ向かう県道沿いで、多古町と栗源町の境いのところである。
昭和十年にこの県道を工事するとき、受益村々が協力する意味で一戸一名ずつの無報酬の人夫が割り当てられて作業に従事したのであるが、その作業中に崖崩れがあって、三人の若者が生命を失うという不幸な出来事が起こった。この地蔵像は、そのときの犠牲者の霊を慰めるために遭難現地に建てたものである。右若者のうち一人は、親類から農業手伝いに来ていてこの禍いに遭っている。
その事実を後世に伝えるため、次のような石碑(七三センチ)が建てられている。表が地蔵尊像で左右裏面に刻字があり、「赤池区一同 昭和二十七年十一月建立 昭和十歳二月二十四日 県道工事犠牲者松原儀平大須賀村馬乗里十八才 山倉善治久賀村赤池十八才 向後雄三郎久賀村赤池二十才」と記されている。
道祖神 字道祖神三八四番の一三にある。それは成田から小見川へ向かう県道の西の端で、多古町と大栄町の境界である。境界を示す小堤を県道が横切り、その切り口に石宮(高さ四二センチ)が祀られている。刻字は損傷が多く「 祖 年二月 小堀文吉建之」とだけ読み取れる。
弁天社 字高堀三八五番の四三二にある。窪地で、雨季には天然の池になるような所である。御料地集落では唯一の社として産土神として崇められている。
本殿は木造銅葺(一六五×一一二センチ)の一棟で境内にある石の手洗いには次のように刻まれている。「奉納 寄贈者土屋勘七 林寅松 伊藤太吉 紀元二千六百年記念手洗石雨屋寄贈者 本社発起人土屋勘七 林寅松 伊藤太吉 大工赤池戸村政治 銅工佐原斉藤昇 石工佐原石平 昭和八年三月三日」
道しるべ 十余三小学校々庭と字赤池三五五番の一の一の二カ所にある。
小学校々庭にあるのは高さが七八センチのもので、もと赤池十文字と呼ばれた字赤池二九五番の一にあり、十余三開拓の初期に植えられたと伝えられる榎木の巨木と併立していた。
しかしその後の道路改修によって榎木は伐られ、道しるべは現在地に移された。刻字は「東ハ小見川てうし、北ハ佐原神崎、南ハたこ八日市場、西ハ佐倉江戸、寛政八丙辰星(一七九六)九月吉日建之、前林村観音講中三十四人」とある。
もう一つの道標(高さ一三九センチ)は、成田・小見川県道から国道五十一号線の桜田へ向い、県道が交差する十字路に立っている。
その刻字は「(表)花山院西国三十三所供 とつ なり (伏字部分埋没)。(左)此方すこしゆき右さくらかとり左いのふかうさき。(右)此方ひしたかもしばやまいゝささ。(裏)みくら山くらまつさきたこ中むら八日市場。旹天保三龍集壬辰(一八三二)霜月詰旦。飯笹武兵衛 同茂右衛門 同長兵衛 同利左衛門 小堀宗兵衛 取香太兵衛 太右衛門 同藤四郎 同重兵衛」とある。
顕彰碑 字赤池三四二番にある。
通称赤池十文字の西の一隅で、緑陰を作る欅の大木は開拓当初に植えられたと伝えられているが、さすがその巨大さには歴史の流れをうかがわせるものがある。
この碑(高さ三一七センチ、幅一四二センチ)は、赤池といわれた開拓地が、十余三として現在の繁栄を築く基礎を作った菅澤重雄翁のもので、「受天百録」の篆額は徳川家正公爵、撰文は文学博士塩谷温先生、書は翁の師並木栗水の孫熈太氏で、「貴族院議員菅澤重雄君頌寿碑」と書き出されている。昭和二十一年十二月に建立されたもので、裏面の寄付者名の数は約四〇〇名に及んでいる。
同じ敷地内にもう一つの碑(高さ一三四センチ、幅六五センチ)があって、「土屋忠治君碑」とある。
撰文が柳斉塚本省、筆は桐蔭菅澤重雄で、昭和二十六年三月に建立されたものである。
碑文の大要は、「土屋君は山武郡大総村の生まれで高津原に住み、碑の前にある多古から国道五十一号線の桜田権現前に通ずる県道の新設に、菅澤翁とともに尽力して完成させ、沿道住民の多年の夢を実現させたこと」と、その功績をたたえている。