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久賀村の誕生

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 多古町の北部一帯の村々は、徳川時代は旗本の知行地であり、台地上の一部は矢作牧の内に入っていた。明治元年七月二日からは、新政府の府藩県三治制により柴山典(文平)が上総安房監察兼県知事に任命された。当時県名はなかった。
 明治二年二月九日、新しく宮谷県が設置され、当地区はその管轄となって、牛尾村の防捍頭取勝又茂右衛門から、国の指令が達せられるようになった。同三年からは宮谷県支庁が作られてこれに替る。
 明治四年十一月十三日宮谷県は廃止となり、千葉県の前身として木更津・印旛の二県が作られ、常陸国に新治県が作られると、香取・海上・匝瑳の三郡は新治県管轄に入るが、新治・印旛両県の境は現在の多古町と大栄町の境より南に入っていて、旧矢作牧内であった。そのことにより、十余三区(御料地を含む)は印旛県管轄に入ってしまう。
 同五年に行政区画が定められると、第五大区第七小区に編入され、新治県の支庁は小見川に置かれた。
 明治六年六月十五日、木更津・印旛二県が合併して千葉県となり、この地方は新治県のままであったが、同八年五月七日には新治県が廃止されて、現多古町全域が千葉県へ編入された。
 明治九年一月、千葉県は行政区画の再編成が行われて、大門・西古内・次浦・桧木・出沼・谷三倉・本三倉・苅毛・西田部・岩部・高萩・助沢・沢・荒北の一四カ村は、第十五大区四小区となって、第四小区取扱所は本三倉の西徳寺に設けられ、戸長には苅毛村平山新右衛門、副戸長には本三倉村鎌形縫右衛門、西古内村香取新右衛門の両名が推された。しかしこの行政画域に住民の不満があったのであろう。五月に次のような願書が千葉県庁に提出される。
 
     乍恐書附以奉願上候
                                 第拾五大区一小区香取郡井戸山村
一、反別卅四町七反九畝三歩
 旧村高二百五拾九石三斗七升二合
一、戸数四拾七戸
 人員二百卅人、内男百拾三人女百拾七人
                                       同区    寺作村
一、反別九町九畝廿二歩
 旧村高八十八石六斗八升四合
一、戸数拾一戸
 人員五拾一人、内男廿四人女廿七人
                                       同区   御所台村
一、反別廿一町四畝六歩
 旧村高百五拾九石九斗一升
一、戸数拾八戸
 人員百八人、内男五二人女五六人
                                       同区   高津原村
一、反別六拾町七反六畝九歩
 旧高三百拾六石五斗七升
一、戸数五拾八戸
 人員二百九拾五人、内男百五拾人女百四拾五人
                                       四小区   大門村
一、反別三拾町三反七畝八歩
 旧高二百四拾五石五升
一、戸数二拾八戸
 人員百五拾人、内男八拾四人女六拾六人
                                       同区    桧木村
一、反別拾五町三反七畝廿六歩
 旧高七拾六石壱斗八升九合
一、戸数拾弐戸
 人員六拾三人、内男三拾五人女二拾八人
                                       同区    出沼村
一、反別廿五町壱反三歩
 旧高二百三拾五石八斗三合
一、戸数三拾壱戸
 人員百四拾人、内男七拾人女七拾人
                                       同区   本三倉村
一、反別卅六町壱反壱畝廿歩
 旧高二百九拾八石九斗壱升七合四勺
一、戸数五拾弐戸
 人員二百七拾四人、内男百弐拾人女百四拾六人
                                       同区   谷三倉村
一、反別廿七町九反七畝拾八歩
 旧高百七拾五石弐斗六升六合四勺
一、戸数三拾弐戸
 人員百九拾人、内男九拾五人女九拾五人
                                       同区    次浦村
一、反別五拾四町三反三畝廿六歩
 旧高四百五拾四石四斗弐升
一、戸数七拾五戸
 人員三百七拾五人、内男百八拾六人女百八拾九人
                                       同区   西古内村
一、反別廿三町一反四畝五歩
 旧高百八拾壱石二斗九升八合
一、戸数四拾戸
 人員二百八人、内男百一人女百七人
        右拾壱ケ村
           改久賀村
 右村々一同奉申上候、前書拾壱ケ村之儀者、田畑山野等悉皆入交リ、往古ヨリ総名ヲ九ケ村(くがむら)ト称シ一村同様ニ親シミ居候、先般旧県ノ砌、村々合併可致前ニ一同協議之上、願書差出シ可申決定仕候処、御当県御引渡ノ際ニ臨ミ其ノ儘差扣罷有候得共、右村々ノ儀者丘陵平底両半散在、且丘陵之地ハ山林原野多、平底ノ地ハ麁田ノミニテ水旱両災ニ相罹リ、用水ノ儀ハ丘地ノ余水ヲ分流シテ、村々潤沢ス、尚又細民共ニ於テハ、甲乙村ニ多寡之種類共和之上、進退仕候村々故、拾壱ケ村合併仕、村々旧名ヲ廃シ往古ノ総名ニ基キ、 ニ久賀村ト改称、区画之儀ハ両区相跨リ候テモ、将来之便利見込モ有之候間、願意御採用被成下度、一同連印ヲ以奉懇願候
   明治九年五月五日
                                   井戸山村用掛 加瀬久右衛門
                                   寺作村用掛  飯田清兵衛
                                   御所台村用掛 土井茂兵衛
                                   高津原村用掛 菅澤杢左衛門
                                   大門村用掛  五木田泰助
                                   桧木村用掛  小川伊右衛門
                                   出沼村用掛  多田久右衛門
                                   本三倉村用掛 鎌形荘右衛門
                                   谷三倉村用掛 高橋幸右衛門
                                   次浦村用掛  土屋小右衛門
                                   西古内村用掛 高橋源之亟
                                   右大区四小区
                                   副戸長    越川泰輔
                                   同区副戸長  香取新左衛門
                                   戸長     平山新右衛門
                                   第十五大区一小区
                                   小区副戸長  池田泰重郎
                                   戸長     五十嵐佐五郎
  千葉県令柴原 和殿
 前書調査仕候処相違無之ニ付願定披為在御採用度此段申上候也
                                   第十五大区々長 石田清平
 
 こうして、村の合併願書が提出された年の九月に、私塾を禁じた千葉県の方針によって、次浦に第一大学区第二十六番中学区第六十三番小学区「公立次浦学校」、高津原に「興新小学校」の前身である「公立次浦学校附属学校」が設けられ、次浦学舎・高津原学舎の二つの私塾は閉鎖された。
 前掲の合併願に対する、千葉県からの指令書が翌十年四月に出るが、その原文は次のとおりである。
 
書面願ノ趣聞届候条、村境傍示杭並毎戸番号札共、村名書改、戸籍帳ノ義モ同様、朱書ヲ以ッテ登記可致事。
但シ改租ニ付地押畝杭等ハ其儘差置不苦、尤此上改租ニ関スル諸帳簿調製方等ハ、派出官ヘ申出可受指図、且戸籍毎戸番号改正済ノ上夫々可届出事
  明治十年四月廿三日
                                       千葉県令 柴原 和
 
 ここで久賀村の母体はでき、村名も九カ村を久賀村の雅字に改められた。明治十一年に「郡区編成法」によって、他村は大区小区制から連合村時代になるが、久賀村は連合村時代を一時期早く超えて、他村より一〇年前に一村の形を作ったわけである。
 初代久賀村戸長には、次浦の堀平右衛門が就任した。当時の戸長役場は戸長の自宅をこれに充てることが多く、久賀村戸長役場も平右衛門宅に設けられた。明治十四年四月に高津原の津島宇左衛門が戸長に就任すると、役場も高津原へ移った。
 明治十六年四月、次浦の土屋小右衛門が就任したときから、同所の永福寺(通称西の寺)を役場としたが、同十七年八月、高津原の津島宇左衛門が再任すると、高津原字稲葉九二七番に庁舎を新築移転した。同二十七年には次浦の土屋小右衛門が再任となったが、役場は再び次浦の永福寺に移されたのである。
 こうした役場位置についての争いは、明治二十七年八月二日開催の村議会で頂点に達し、多数決によって、西古内字石橋が役場の位置と決定するが、次浦を始めとする北部側の反対のため実行されず、同三十年になって次浦字坂中一五五三番地に新築された。さらに、次浦字京町八七五番地へ移ったのは、昭和三年三月九日であった。
 これよりさきの、明治二十一年四月に「市町村制」が発布され、翌二十二年四月一日から施行されると、いままで印旛県から千葉県埴生郡管下に編入されていた十余三地区の人達が、陳情してくる。(十余三の項参照)。明治二十二年六月廿二日からは、十余三地区(御料地を含む)が、久賀村に編入されて、昭和二十九年三月三十一日、合併によって多古町となるまで続く。