川島について、『常磐村郷土誌』は次の記録を残している。
古くは玉造郷に含まれ、後川島村と称し、維新前は二給制にして、石高九八石七斗二升、戸数二十三戸、中根定之助・中嶋三左衛門知行たり。
維新後、宮谷県に属し、明治四年十一月に新治県に属し、同八年五月、千葉県に属した。同二十二年三月、町村制実施により常磐村の連合部落となり、川島区と称して今日に至る。
とあり、南玉造の地積の一部を合わせ、川島区として行政上の集落は一区制を実施している。
南玉造一番地より四五番地までは、昭和期に至るまで柏熊・坂並・川玉としてそれぞれ南玉造に属し、ともに同一行政区域内にあった。柏熊は昭和二年に分区独立した。
明治四十三年調べによる川島の面積人口は次のとおりである。
面積 二五町六反五畝歩
戸数 二四戸
人口 一二五人
それが、昭和五十九年度の調べによると次のようになっている。
宅地 三町二反四畝歩 田 一九町九反七畝歩
畑 三町七反五畝歩 山林 五町七反二畝歩
原野 六反一畝歩 その他 八畝歩
人口 二二四人(男一一六、女一〇八)
戸数 五一戸
川島区は、古くからこの地方行政の中心地とされていた。その規模は旧常磐村地区内の最小の集落であるが、村の中央に位して、明治十一年七月郡区町村編成法が定められたときには佐藤孫右衛門宅に連合役場が置かれた。
明治十七年に、それまで独立していた村々の連合制がしかれ、川島・東松崎(塙・宮本)・坂・方田・南玉造の五カ村が連合して後の常磐村となり、その役場は翌十八年に佐藤孫右衛門宅から同川島の妙蔵寺に移された。
当時、川島の役場は近隣二五カ村の登記役場も兼ね、その事務を取り扱っていた。その村々は、川島村外四カ村、岩部村外六カ村、新里村ほか五カ村、飯高村外六カ村である。なお、同二十一年十一月一日、この登記事務は、現在の多古に設置された八日市場治安裁判所に引き継がれた。
明治二十二年三月、市町村制が公布されて、常磐村役場となり、同三十年十一月、川島字馬場道上に役場庁舎(建坪二二坪余)を新築移転した。さらに三七年を経て昭和九年、川島字馬場道下に、新庁舎を建設し移転した。
川島区に関する起源は後述するが、往時の玉作郷の一部であり、「玉作郷川島村」と称した時もある。現在残されている資料は乏しく、徳川治政下の実態を伝えるものとしては、幕末から明治の新政に移る当時の『村高明細帳』がある。
その内容は次のとおり記録されている。
村高明細帳
下総国香取郡大寺村附属
御支配所 川島村
一、高九拾八石七斗弐升
下総国香取郡川島村
内
高四拾九石三斗六升
元 中島鎮太郎 上知
田、高三拾六石七斗弐升壱合
高壱石ニ付 取三斗七升壱合
此反別 三町四反七畝七歩
此取米 拾参石六斗弐升三合四勺九才 惣納辻
畑 高九石九斗
此反別 一町九反八畝十一歩
高壱石ニ付、取三斗七升壱合
反永弐百五十文
去辰年
此永四貫九百五拾九文壱分五厘 御願済
屋敷高 弐石七斗六升弐合
此反別 弐反七畝弐拾歩
此取米 壱石弐斗四合七勺
此永六百九拾壱文六歩六厘六毛
合 米拾参石六斗二升三合四勺九才
永五貫六百五拾文八歩壱厘六毛
亥年
一、米拾五石八斗八升四勺六才 惣納辻
子年
一、米拾参石五斗六升 合弐勺六才 同
丑年
一、米拾五石八斗八升四勺八才 同
寅年
一、米拾弐石弐升四合弐勺壱才 同
卯年
一、米拾七石四斗二升九勺八才 同
右五ケ年平均
米拾四石九斗五升五合八才
一、四拾九石三斗六升 元 中根主計 上知
内
田、高四拾石四斗九升三合六勺四才
高壱石ニ付、取四斗八升四合七勺
此反別 四町壱反壱畝十九歩
此取米 拾九石六斗弐升七合弐勺七才 惣納辻
畑、高七石弐斗九升 合
高壱石ニ付、取四斗八升四合七勺
此反別 壱町弐反参畝廿四歩
此取米 三石五斗三升四合四勺三才
此永 三貫九拾五文
屋敷高 壱石 斗七升三合
此反別 壱反五畝廿五歩
此取米 七斗六升弐合四勺三才
此永 三百九拾五文八分三厘弐毛
合 米拾九石六斗弐升七合弐勺九才
永三貫四百九拾文八分弐厘弐毛
亥年 惣納辻
一、米弐拾壱石弐斗弐升八合四勺三才
子年 同
一、米拾六石八斗四升弐合三勺五才
丑年 同
一、米弐拾壱石六斗弐升八合五勺五才
寅年 同
一、米拾八石五斗壱升七合三勺六才
卯年 同
一、廿壱石六斗弐升八合五勺五才
右、五ケ年平均
米 拾九石九斗六升九合五才
惣寄
高 九拾八石七斗弐升
合 米 三拾参石弐斗五升七勺八才
永 九貫百四拾壱文六分四厘八毛
五ケ年総平均
米 参拾四石九斗弐升四合壱勺参才
右之通取調奉差上候 以上
右村
伍長 元右衛門
什長 三右衛門
組頭 又右衛門
明治二巳年六月
宮谷県御出役
佐藤左衛門様
原 三八郎様
また、これにより以前の弘化二年(一八四五)『関八州取締役控帳』には、知行者と石高が同じで、家数は
中根主計 知行地 六軒
中島鎮太郎 知行地 一一軒
とある。
右の文書に記された数字が川島村において徳川末期から明治の初年まで用いられた収穫見込高と、「取米」すなわち年貢として納めた数量である。
なお、村内は二名の旗本によって知行され、年貢もそれぞれ納めたわけであるが、年貢の賦課率が大きく違い、中島氏が三八%、中根氏が四八%となっていることに着目したい。
貢米の高は、その年の村の実収高、豊凶の程度により必ず検討されねばならない重要な課題であるが、耕地の立地条件などによって、村ごと、個人ごとに格差が大きく、農民にとって死活の問題であったことはいうまでもない。