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村の起源

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 いずれの村にしても、人が住み始めた時代をたずねる資料は極めて少なく、川島村もその例外ではない。
 現在町に残る貴重な資料として、元郷社・松崎神社の古文書がある。それは、標題に『松崎大明神・香取郡北条式地之村』と記された一巻の文書で、巻末に「永禄九年丙寅(一五六六)八月十五日」の日付があり、その一節に「飯高村ゑた(注、枝村)ふく田 かわ嶋」と、飯高村の枝村としての川島が記されている。
 その頃にはすでに、川島村は飯高城主平山氏の領地であったといわれているが(『香取郡誌』)、それ以前の永正十三年(一五一六)一月、城主平山三河守時常(持常とも)は字谷二一三番に、蓮常院日門上人を開山として妙法山蓮成寺を創立して菩提寺とした(『常磐村誌』)。
 のち時常は、その子常時に城を譲って蓮成寺に退隠し、出家して「日性」と号したが、永禄九年(一五六六)十二月二十三日に没している(同前)。その墓碑は松崎顕実寺にあり(蓮成寺は廃寺となり、顕実寺に併合)、「蓮常殿 永禄九年丙寅十二月二十三日 平山三河守持常」とある。
 次の常時は、里見家の将正木大膳が香取地方を侵攻したとき、これを破ったことで勇名を知られている(香取郡誌)が、天正十六年(一五八八)十一月(または十二月とも)十五日に没し、父時常と同じく蓮成寺に葬られた。顕実寺に建つ墓碑には「日浄殿 平山刑部少輔常時 天正十六年戊子十一月十五日」と刻まれている。
 常時の子常吉は、天正十八年(一五九〇)に城地を飯高檀林一世蓮乗院日尊に寄進して檀林開構の基を作り蓮成寺に退隠した。寛永十四年(一六三七)三月四日(また三月六日、五月六日とも)に没し飯高常静寺に葬られた。法名は「常勝院殿日勝(藤)居士」である(『飯高村誌』)。
 その子刑部少輔は飯高に住んでいたが、徳川氏の関東支配とは別に帰農し、延宝八年(一六八〇)二月五日没。法名を「誠諦院円信日唱居士」といい、飯高常静寺に葬られたが、その子孫は今に続いているという(『飯高村誌』『香取郡誌』)。
 平山氏が飯高にいて、自らの菩提寺として川島に蓮成寺を開き、そこに退隠したことは、後に城地を寄進して飯高檀林の基礎を築いたことと、信仰的に相通ずる点が見られ、当時の在地領主と日蓮宗学派との深い結びつきがうかがえる。
 以上は諸説を総合して、村の起こり、開発の発端を記してみたが、特に飯高城および城主平山氏、ならびにその変遷などを確認できる文献・史料は未だ見られない。一部伝承的に推察されるものはあるが、年代、氏名など不確かな要素が多いことを付記するものである。