ビューア該当ページ

村の支配者

812 ~ 820 / 1069ページ
 平山氏による統治
 前項にも述べたように、川島は飯高村の枝村で、領主飯高城主平山時常が当地に菩提寺としての蓮成寺を建立したのが永正十三年(一五一六)といわれている。
 この平山氏について『香取郡誌』は「平山時常・同常時墓」の項に、
 
 常磐村川島字谷、旧蓮成寺城内に在りと。時常三河守と称す(一に持常に作る)飯高城主なり、香取古文書に飯高五郎及び北條荘役所地頭飯高彦次郎等あり、蓋し時常の祖ならむか――
 
 このように、飯高城主平山時常の祖先が飯高(千葉)氏ではないかとし、同誌「飯高村」の項に
 
 平常兼の姪(一に孫)常能(又常義)金原荘司となり、常兼の三子常賢の子政胤飯高に居り、並に此地方を領し、政胤の子孫に至り平山氏と称す。永禄・天正の際に至り平山時常、常時等秋山将監、那須大角等と本村地方を分領し。小田原落城と共に亡ぶ――
 
と、平山氏は千葉氏の後裔であることを述べ、同じく「常磐村」の項に
 
 「金原常能曽て金原荘司となり子孫此地方に蕃衍し、戦国時代に至り其族裔及び諸武人は皆一部落を占め、宇井・平山・野平の諸族あり以て之を分轄せしものの如し。小田原城の陥るや諸氏亦離散し――
 
とある。
 また『千葉県誌』は「飯高城址」を
 
 ――平常兼の第八子常広(匝瑳八郎)の第三子政胤(四郎)此の地を領し、飯高氏と称して之に居り、子胤広(五郎入道)孫常道(弥二郎、左衛門尉)に至る。後平山常時之に居り、天正中城陥り、飯高をその墟に建てたりと云ふ。
 
と、平山氏の在城は飯高氏のあとであることを述べている。
 さらに同城址について『香取郡誌』は、常道のあとに北條庄役所地頭飯高彦二郎を記し、つづいて
 
 天正中に至り胤氏(左馬助)胤勝(四郎)胤房(河内)五郎なる者に伝ふ。(中略)天正の末小田原の陥る飯高氏亦采邑を失ひ、子孫農となり五郎左衛門と称し、後千葉氏と改む(後略)
 
このように載せている。
 以上のことがらを系譜的にまとめてみると

 

 このようなものになるのではなかろうか。
 なお松蘿館本千葉系図には、政胤は常賢(また広賢)の子で、常弘とは叔父・甥の関係であるとして、次のように記している。

 

 また神代本千葉系図では、常能(義)は常房の孫であるとして

 

 このように記載している。そして『八日市場市史』は、
 
 次に平山氏についてだが、伝承では「飯高城主平山刑部」といわれる者が存在する。しかし、史料的には不明な点もいくつかあり、果して飯高城主と呼ぶにふさわしいか、どうかは疑問として残る。(中略)文明期(一四六九~八六)以降、平山氏の惣領筋は飯高郷内に居領したようであるが、当地方では現在のところそれを裏付ける史料はみつかっていない。
 
として、平山氏の系譜を次のように採録している。

 

 そこで、右の日奉宗頼に始まる平山氏と、飯高城主といわれる平山時常との結びつきを、鏑木(干潟町)、中村(多古町)、両平山家にも現存する系譜、および他の史料によって辿ってみると、次のようになるのではなかろうか。

 

 このように日奉系平山氏からは、飯高城主なる平山季俊およびその子時常・孫常時についての関連性を確かめることはできない。
 また、同系の飯高平山重兵衛家系図によると、武者所季重の孫重親(重実の弟)は宝治の合戦(一二四七)のとき、三浦泰村に味方したことから幕軍北条時頼勢に攻められ、上総一ノ宮大柳城で自害したが、そのとき三歳であった長子重貞は、乳母とともに上総国武射郡山田村(現芝山町)の金竜山金光寺に逃れてひそかに育てられ、成人して太郎左衛門と称し、千葉氏に仕えたという。
 それ以後代々山田村に住み、八代を経て中務丞重広となるが、このときに飯櫃城主山室為陸(左衛門尉、飛弾守常隆の祖父か)の妹を娶ってから縁組みを重ね、山室氏一門の将として重きをなしていたようである。
 そしてさらに四代後の重房(左馬介)は、刑部少輔胤勝の一族である胤茂の娘を妻として、飯高に住んで帰農したという。
 いずれにせよ、前記蓮成寺を合併した松崎顕実寺に現存する蓮成寺十二世日恵の建立になる供養塔によれば、「妙法山開基蓮常院日門大徳、蓮常殿平山三河守持常、永禄九丙寅十二月二十三日。日浄殿平山刑部少輔常時、天正十六戊子十一月十五日」とあり、他の史料からみても日奉系平山氏から出た人物であるとは思われるが、その他の点については不分明な点が多いといわざるを得ない。
 徳川時代の統治
 徳川氏が関東を支配して後は、多古藩領、佐倉藩領とうつりながら、旗本の知行地へと変って来たが、前記『村高明細帳』に見られるとおり、ある時期は中根・中島両旗本が相給地として知行していたようである。
 次に両家の家譜を記してみよう。
 中根氏 平氏の後裔といわれ、三河国(愛知県)額田郡箱柳の出身で、その地を中根といったところから地名を姓としたという。永禄の頃(一五五八―六九)から徳川家康に仕えた譜代の家臣で、伝七郎正重が、天正十九年(一五九一)に武蔵国(埼玉県)高麗郡内で二百石の地を賜わり、その子大隅守正成は慶長十年(一六〇五)下総国臼井領吉田郷で二百石加増されたのに続いて、たびたび加増を受け、寛永五年(一六二八)八月にも、上総国周准郡・武射郡・下総国香取郡の三郡内で千石を加増されたが、このときから川島は中根氏の知行地となったようである。
 さらに寛永十二年(一六三五)十二月下総国匝瑳、香取の二郡内で二千石を加増、すべて五千石の大身となり、翌十三年十二月には従五位下大隅守に叙任された。のち大番の頭などを勤め、子孫は正勝・正延・正利・正直・正均・正寧・正英などが継ぎ、最終的には六千石を禄し、明治まで村を支配した。
 香取郡内での支配村は、森戸・香取・新市場・大友・林・飯高・須賀山となっている。最後の当主は中根錬太郎であった。
 中島氏 藤原氏から出た家柄で、備中国(岡山県)加陽郡中島郷に住んでいたことからその地名をもって姓とした。初代行友は紀伊徳川の家臣であったが、孫の在友のとき享保元年(一七一六)九月から九代将軍家重に仕え下総国相馬郡内で采地三百石を賜わった。同九年(一七二四)九月には従五位下伊予守に任ぜられ、同十四年(一七二九)三月に下総国香取郡内で五百石加増され、このときから川島は中島氏にも知行されるようになった。
 のち、在久・行道・行敬・行政などに継がれ、ついには千七百余石となり、騎射流鏑馬(やぶさめ)を以て名をなし、明治まで続いた。維新時の当主は中島鎮太郎である。そして、香取郡内における支配村は、川島のほかに大寺・諸徳寺であった。