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村の生いたち

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 宝亀三年(七七二)に創建された記録のある松崎神社は、桓武天皇(七八一~八〇六)から三百石の社田を寄付され、坂上田村麻呂は東征(七九七)の勝利を祈願して宝鏡および征矢を奉献。僧空海はこの地を訪れた弘仁三年(八一二)に、手にした杖を地に挿してその繁茂を祈ったが、これが後に「逆さ銀杏」となったといわれている。
 また、境内には前方後円墳(北条塚、県文化財指定)があり、このことによって、少なくとも六世紀以前に人々の生活があったことが証されるものである。
 その後平忠常の乱によって長元中(一〇二八~三六)に焼失したが、明徳年間(一三九〇~九四)には南朝の遺臣西園寺公宗の弟俊秀の子平野式部重俊が、家臣七人とともに、当時の神職松崎民部を援助し、観応・文和(一三五〇~五五)の頃から近郷の武門に侵されていた神領の回復をはかり、のちに松崎氏の養子になったと伝えられる。
 「松崎」という村名について『常磐村郷土誌』は次のように述べている。
 
 古クハ北條庄或ハ松崎郷ト云ヒ、徳川時代ニ至リテハ松崎村ト称ス、香取郡ニ属セリ(中略)松崎ハ初メ「先崎」ト書ス、其年代詳ナラザルモ、天正慶長時代ノ古文書ニモ稀ニ先崎ト書セシモノアリ、古文書ニヨレバ、附近ノ部落中先ニ開ケシ所トノ意ヲ取リテ村名トナセシモノナリト
 
 なお、『北條式地之村』と記した次の古文書がある。
 
       松崎大明神香取郡北條式地之村
   新里村 ゑだ ちやうた だうのだい みなみ
   山倉村 ゑた みね
   鏑木村 ゑた 高根 くみ崎 かゝ山 ゆき はなわ
   大寺村 えた 美女塚 いゝもり塚 かきもん うらやの代 かみさ
   安久山村 えた 丁子
   高萩村 ゑた 中野
   大角村
   坂村 ゑた おだか
   飯高村 ゑた ふく田 かわ島
   内山村 ゑた ふう田 かきざく
   関田村 ゑた 小川
   桐谷村
   鳩山村 ゑだ 土仏
     永禄九丙寅年(一五六六)八月十五日
                                     神主
 
 また、鎮守の地元であることから「宮本」とも呼ばれ、慶長時代の『水帳』には「塙」「花和」などと記されているが、豊臣秀吉の全国検地のとき「色かへぬ常磐の松」といわれたことから「松崎」と改めたとの伝承がある。
 右の『慶長水帳』からその一部を次に記して、当時の様子をたずねてみよう。それは『下総国香取郡先崎郷御縄打之帳』と表記された十冊の綴りになったもので、「慶長九年(一六〇四)辰八月十七日」の日付が見られる。
 
   上田 十九町三反一畝十二歩
   中田 十六町五反八畝〇九歩
   下田 三六町〇反二畝二二歩
   田計 七一町九反二畝十三歩
   上畑 七町三反三畝〇六歩
   中畑 七町五反一畝二八歩
   下畑 八町四反八畝十七歩
   畑計 二三町三反三畝二十歩
   屋敷 一町三反五畝二二歩
 
 このようになっているが、それから二八四年後の明治二十一年の『土地台帳』によると、次のように変っている。
 
   田   一五〇町〇反二畝〇五歩
   畑   四六町四反九畝二五歩
   宅地  二〇町四反〇畝二四歩
   山林  六一町四反五畝二七歩
   原野  一三町一反六畝〇五歩
   小計  二四八町五反四畝二六歩
   墓地  九反四畝一四歩
   弊馬捨場  三反一畝二五歩
   総計  二四九町八反一畝〇五歩
 
 なお、これより以前の明治三年には、新治県に所属していたが、印旛郡内に同村名があって紛わしく、同郡松崎村より東方に位置するところから、東の一字を冠して、「東松崎村」と改称するようにと、県からの指示を受けている。
 そして、明治五年に行われた戸籍調査による戸数・人口などは次のようである。
 
       新治県第五大区小拾壱ノ区戸籍総計
                                        香取郡東松崎村
   戸数  百二十七軒 但家持
   社   一
   寺   二
   僧二人 弟子三人
   平民百十九人 同家族五百人 内男二百八人 女二百八十九人 人員総計六百二十一人
     (中略)
   医業男二人 工男二人 農男百十二人女七人
   右之通相違無之候
     明治五年壬申
                                  第五大区小拾壱ノ区長及川孫左衛門
                                  同       副 林 弥助
 
 また、同年における農間職業は
 
   酒造人  一(酒造高百二十石)
   醤油造人 二(醤油造高五十石ずつ)
   濁酒造人 一(濁酒造高十石)
   質渡世人 四
   絞油人  一(一斗絞)
   穀商   一
 
このようになっていた。
 以上が明治中期頃までの村の姿である。
 明治二十九年になると、定められた行政区画とは別にその実態は二分され、その呼称も「塙」「宮本」となった。これは、商業的、または観光的な形態を有する宮本地域と、農業的な内容を持つ塙地域との、生活様式の相異が起因しているものと思われる。
 元禄十一年(一六九八)の文書に、「松崎郷 一、東ハ坂村地境より塙迄之間六百五拾間余 一、北ハ山倉村大角村ノ地境 南ハ方田村ノ地境迄七百間余 一、松崎郷古来より之村ニ而新村枝村ニ而無御座候」と記された部分があり、その頃からすでに分離の動きはあったのかもしれない。
 次の文書は、分離に当って両地域が取り交わした『締約書』であるが、そこに記されたとおり現代に継続している。
 
     香取郡常磐村塙区宮本区締約書
 明治廿九年十一月廿四日香取郡常磐村東松崎塙区東松崎宮本区ニ於テ双方協議ノ上左記ノ締約ヲナシ明治廿九年度より執行スル事
一、東松崎塙区東松崎宮本区区費収入予算集金額ヲ金六拾円トシ 其配分法ハ金四拾円(即チ予算総額三分ノ二)塙区分 金弐拾円(即チ予算総額三分ノ一)宮本区分トス
一、収入予算金賦課法ハ地租割トシ毎年弐期(即チ四月、十月)ニ徴収スル事 但シ徴収区画ハ従前ノ事
一、決算上双方配分額ヲ超過スルモ各自区ニ於テ負担シ 地租割ノ追徴ヲ成サザル事
一、決算上残余金ヲ生ズルトキハ 翌年度区費全体ノ収入予算額ヘ繰入ル事
一、両区収入予算金額六拾円ハ 時宜ニ依リ両区々長及関係者一同協議ノ上改正増減スル事
一、本証ノ効力ハ協議成立ノ上ニ限ル事
   明治廿九年十一月廿四日
          香取郡常磐村東松崎塙区長 林為次郎
          香取郡常磐村東松崎宮本区長 飯田脩作
              同村宮本区立会人 久志本常春
              同村宮本区立会人 飯田総三
              同村宮本区立会人 平野太吉
              同村塙区立会人 斉藤万次郎
              同村塙区立会人 佐藤亥之助
              同村塙区立会人 佐藤勘兵衛
              同村塙区立会人 林甚右衛門
          香取郡飯高村片子仲裁人 住母家周助
          香取郡常磐村坂区仲裁人 及川五之助
          香取郡常磐村南玉造仲裁人 秋山米吉
          香取郡常磐村坂区仲裁人 細野善兵衛
 
 先述のように、事実上はこの二区に分かれて諸行事などが運営されて来たのであるが、行政区域としての東松崎の昭和五十九年現在は次のようになっている。
 
   田  一〇七町一反六畝歩  原野  三町九反五畝歩
   畑   五九町二反三畝歩  その他 三町四反二畝歩
   山林  六四町四反七畝歩
   宅地  一六町五反四畝歩
   戸数  一六九戸
   人口 男三三四人、女三六七人、 計七〇一人