文永八年(一二七一)十二月十日御遷宮千葉介胤定施工の項に、
内院門一宇、桧皮葺、在金物
作料官米漆拾斛
匝瑳北條本役也 仍地頭等造進之
佐渡殿一宇、一間、葦葺、在金物
作料官米参拾斛
匝瑳北條本役也 仍地頭等
元徳二年(一三三〇)六月二十四日御遷宮葛西伊豆三郎兵衛尉清貞施工の項に
一内院中門一宇、匝瑳北條飯高五郎跡
造宮所役注文の項に、
一、当国諸御家人勤仕役所
一宇、内院中門 同北條庄南北役所地頭飯高彦二郎以下輩
一宇 佐土殿 同北條庄役所地頭飯高彦二郎
右大概粗注進如件
康永四年(一三四五)三月日
千葉満胤奉書の項に、
香取社大行事軄事
右於公家関東、以憲房被定上者、為当社造替、任先規可被致作新米之沙汰之由候也、仍執達如件
応永五年(一三九八)潤四月廿日
平(花押)
北條庄内 山内宮内小輔殿
このように記されていて、飯高五郎・同彦二郎が北條庄地頭となっていることがわかる。地頭は朝廷から荘園管理を任せられた、現地支配人ともいうべき地位の武士である。荘園内の飯高に住んで里人を指揮して農業を経営し、その貢租を京都朝廷に送っていたものであろう。
この飯高氏は、『千葉大系図』によると次のようである。
千葉氏第四代は常兼であるが、その三男が常広で、下総国匝瑳郡に居城したことから匝瑳八郎とも称し、その子孫は匝瑳党を名乗った。
常広の四男が政胤で下総国飯高郷を居領とし、飯高四郎(また、五郎とも)と称した。そしてこの直系に胤広(飯高五郎入道)、常道(飯高弥二郎左衛門尉)などが生まれている。
これを略系図にまとめると、次のようになる。
そして、この系図と前出の『香取文書』を読み合わせると、文永八年(一二七一)頃の北條庄地頭は千葉政胤(別名飯高四郎)であったようである。以来数代にわたって飯高氏一族は地頭の職にあり、その支配は松崎の村にまで及んでいたであろう。
そして、前記のように明徳年間(一三九〇~九四)には平野(のち松崎)式部重俊の名が出て来ることになるが、ここで、神領の管理運営についての強大な権限を持ち、昭和二十年代まで当地方に君臨していた松崎家について記し、ともに地域の歴史に触れてみたい。
まず、同家に伝えられる系譜によると、その概要は次のようである。
五摂家の一として知られた藤原家の支流に、西園寺家の祖となった内大臣藤原公宗がいるが、後の松崎家の遠祖となる兵部俊秀は公宗の弟で、藤原家より分家したものであるという。
建武二年(一三三五)の政争に際して、俊秀は、北条方に加わったことから足利氏によって京都を追われ、旧領地の大和国(和歌山県)平野郡野分ケ之里に隠れ棲むことになったが、のち、その子重俊・俊益の兄弟は後村上帝(一三三九~六八)に召し出されて仕え、勅許によって姓を「平野」に改めた。
南北両朝の争いに、平野兄弟は南朝方の武者として多くの戦場に臨んだが、明徳三年(一三九二)に南北朝が合体されると、弟兵部俊益は父とともに野分ケ之里にとどまり。兄式部重俊は七人の家臣を伴って、吉野を落ちて下野国(栃木県)新田庄にしばらく滞在し、さらに下総に下った。
当時この地方は、房州の里見氏がさかんに侵攻をくり返していた時代で、松崎神社神主松崎民部が神領として管理していた当地方一円も、里見氏侵攻の余波を受けて、穏やかならぬ日々を送っていたのであるが、里見家臣正木弾正が矢作城の国分氏を攻めようと兵を寄せて来たとき、松崎氏を守り国分氏を救おうとして重俊は、家臣とともに大いに奮戦して戦功を挙げた。
この戦いについて軍記本『東国戦記実録』は、その様子を次のように述べている。
正木大膳敗軍上総ニ退ク事
去程ニ大須賀尾張守ハ 矢作城ヲ正木大膳攻ルヲ聞キ救ノ兵ヲ集メケル(中略)。大須賀申ケルハ今矢作ニ於テ正木攻メル由、急ニ救ハズンハ有ルベカラス各用意アルベシト、木折能登ニ先陣ヲサセ宮小四郎久郷主計石橋大膳飯高兵部松崎式部、中野芝田藤崎藤田三千余兵、大須賀ヲ立テ矢作ノ城ヘ急キケル(中略)。大須賀方秋山内記矢木民部名乗カケ長南次郎ガ三百余ノ中ヘ突テカヽル、長南勢大敗北シテ引退ケルヲ、高根田子中村ノ者共五百余人替リテ戦フニ、木折能登大音上ケ味方討スナ兵共ト大太刀真向振出ケレバ、飯高神崎小野久能石橋伊東椎名広岡飯岡稲尾ノ兵共我劣ラシト勇ヲ振テ切先ヲ揃ヘ大山ノ崩ルヽ如ク一度ニ噇ト突出タリ(中略)。大膳モ漸ク四五騎ニ打ナサレ辛キ命ヲ免レテ、舟ニ乗リテ二条ノ城ヘ逃ケ入リタリ、尾張守思ヒノ外ニ大利ヲ得テ大須賀ノ城ニゾ入ニケルトカヤ。
この戦いのあと、重俊は松崎民部に望まれ、娘を娶ってその跡を継いで松崎式部重俊と改め、七人の家臣はそれぞれ隣郷に住んで重俊を補佐した。
やがて長子重政か鏑木郷の地頭鏑木弾正忠春の長女を妻として父の跡を継いだが、その頃関東は小田原北条氏の支配するところとなり、松崎家の領域は半減された。
その後、天正十八年(一五九〇)に北条氏が滅亡して徳川氏が関東を領すると、寺領神領は一応改易されてすべて武家領となり、松崎家も帰農することになった。
翌十九年に徳川家の奉行大久保重兵衛の推挙によって系図書、神社由緒書などを改められ、松崎郷の内に朱印地三十石を下賜されて、当主松崎重教の神官としての権限を認められることになった。
以上が徳川期に至るまでの松崎家の概略である。
なお、後代の明治三十二年に、松崎四郎が書き改めた『神職略伝』によると、初期の当主に相違が見られるが、重房を初代として次のように記されている。
第壱代松崎重房。松崎筑後守重隆十六代之孫ニシテ松崎行実之子重矩之嫡子。幼名主計ト称ス、後ニ重房ト曰フ。天文十四年(一五四五)後奈良帝之御代今ヲ距ル殆ト四百年前之神主タリ。此際社領三百石ヲ失シ下社家解散シ困苦ノ位置ニアリ。宮内大夫ニ任セラル。北条家ヨリ社田若干ヲ寄進ス。
第二代松崎重教。松崎重房之嫡子ニシテ幼名八郎後ニ式部ト名イフ。正親帝之天正二年(一五七四)補職ス。徳川氏三十石之社田ヲ寄進ス。社殿造営ノ事アリ、御朱印書初メテ下ル。奉幣使亦文禄年間(一五九二~九五)来ル。
第三代松崎重信。松崎重教ノ男ニシテ式部ト初メ称ス、男子無シ。文禄四年(一五九五)補職従五位下ニ叙セラル。御水尾帝即位ニ当リ慶長十七年(一六一二)上洛セリ、大祭執行二次ナリ。香取大祢宜実応之男ヲ養ヒ子トス。
第四代松崎重次。松崎重信之女瑞枝子ト配ス。重久ヲ生メリ。元和元年(一六一五)補職、幕府之ヲ徴ス。日光廟造営ノ功ヲ以テ位記拝戴並ニ左文字宝刀ヲ下シ賜ハル。寛永年間(一六二四~四三)職ヲ子重久ニ譲リ香取ニ老ス。
第五代松崎重久。寛文三年(一六六三)上洛、位記宣旨口宣案拝戴ス。貞享年中(一六八四~八七)安産神社火災后欠社ナリシヲ起工ス。子重明聖明能ク国学ニ達ス、職ヲ譲リ幕府ニ仕フ。山陵ヲ修ス経営数年辛酸ヲ嘗ム、神社社殿改築工ヲ起ス。
第六代松崎重明。正徳年中(一七一一~一五)世襲。享保中(一七一六~三五)上洛ヲ命セラル。従五位下摂津守ニ任セラル。社殿工成ル。渡海之行幸及正遷宮之二大祭奉仕ス。実ニ六十一年毎ニ執行スル御浜下リト称スル渡海行幸第三回ニ当ル、実ニ未曽有之盛事トス。金幣ヲ造作ス。
第七代松崎重有。重明ノ男、勝治郎ト称セリ。延享二年(一七四五)従五位ニ叙セラル。国学ニ達ス。多年上洛月郷雲客ニ交ハリ仙院ニ奉仕ス。文書今ニ伝ハル数百。男重成早ク職襲セリ。重成幼ニシテ博学ノ聞アリ。
第八代松崎重成。明和六年(一七六九)補職。後桃園帝即位ノ大典ニ関シ上洛ヲ命セラル、祭祀故典ニ詳カナルヲ以テナリ。従五位ニ叙セラル。男子ナシ、香取大祢宜実行之子ヲ養ヒ長女静子ニ配ス。
第九代松崎行高。松崎重成之養子ナリ、式部ト称ス。後ニ従五位下筑後守ニ叙セラル。仁孝帝(一八一七~四五)即位上洛ヲ命セラル。上洛ヲ命スル尓后絶エヌ。
第十代松崎行忠。松崎行高ノ男ニシテ幼名城之助ト称ス。自ラ上洛シ位記宣旨口宣案拝戴。後年子無キヲ以テ、幕府旗本内藤正尚之弟勝次郎ヲ養フ、行正ト改ム。
第十一代松崎行正。松崎行忠ノ養子ニシテ式部ト称ス。病アリ、徳川家定将軍ヨリ特ニ養老料ヲ下賜セラル。男勝治郎ト曰ク、後ニ重幸ト称ス。
第十二代松崎重幸、松崎行正ノ男ニシテ幼名勝治郎後式部ト称ス。慶応二年(一八六六)上京従五位下ニ叙セラレ宣旨口宣案拝戴。王政後神主之号改マリ祠官ニ叙セラル。男重経祠掌ニ叙セラル、父ニ先タツテ早世セリ。四男四郎補職、以ツテ現時ニ至ル。
また、香取神宮文書『香取系図』の一節には次のような記載があり、香取神宮大祢宜の香取家と松崎家の浅からぬ関係を物語っている。
五十四代大祢宜実応神木伐採ノ咎ニヨリ元和八年(一六二二)再ビ追放、万治元年(一六五八)八月八日松崎神主方ニテ病死ス、年七十三。
二男式部松崎稲荷神社神主トナル。
三男覚兵衛松崎村ニ往ス。
大祢宜実行明和元年甲申(一七六四)十二月十日逝、年七十三(以下略)。
二男城之助又筑後、松崎稲荷神主松崎某ノ養子
明応の松崎氏に続いて、応永五年(一三九八)の前記『香取神宮文書』に「北條庄内・山内宮内少輔」の名が見えるが、交替した地頭職か、また、造営のための役人であるのか、この人物については資料がなく、明らかにすることができない。
時代は下って天正(一五七三~九二)の末期になると、当地方支配者として有力な武門、平山三河守持常の存在がある。
この平山氏については、地域史編「川島」の項を参照されたいが、持常は飯高檀林(八日市場市)境内を居城とした武将で、天正の末に武を捨てて出家し、川島へ蓮成(常)寺を創建して隠棲したといわれている。
徳川時代の統治者
徳川時代に入ってからは旗本によって分轄統治されるようになった。そのことを証する資料に次のものがある。
慶応四辰年(一八六八)六月
村高反別取箇明細書上帳
下総国香取郡松崎村
小川達太郎支配所
牧野助重郎知行所
美濃部栄次郎 同
加藤岩太郎 同
三木薫太郎 同
中山攸之丞 同
森川采女 同
内藤修理 同
稲荷社領
下総国香取郡松崎村
一、高千弐百拾弐石三斗九升五合四勺
内 家数(不記)
無地添高弐百拾七石壱斗八合七勺四才
反別百拾町弐畝八分四厘
小川達太郎支配所
一、高壱石六斗弐升九合四勺
反別五反四畝九分四厘
此取永五百四拾三文壱分 皆畑
一、永七百拾五文 小物成
一、永三拾七文七分 口永
牧野助重郎知行所
一、高弐百石
内無地添高三拾五石九升四合六勺七才
反別拾八町五反弐畝拾弐歩
此内訳 此石盛壱反ニ付
上田合四町壱反九畝弐拾歩 〃壱石五斗
中田合壱町七反七歩 〃壱石弐斗
下田合六町七反六畝歩 〃 七斗
田反別合拾弐町六反五畝弐拾七歩
此高百三拾石六斗九升七合九勺九才
取米五拾七石五斗七合壱勺弐才
但壱石ニ付四斗四升取
此石盛壱反ニ付
上畑合八反五畝八歩 九斗
中畑合弐町七反弐拾九歩 六斗
下畑合弐町五畝弐拾弐歩 三斗
屋舗合弐反四畝拾六歩 壱石
畑屋敷合五町八反六畝拾五歩
此高三拾弐石五斗五升七合三勺
取米拾四石三斗弐升五合弐勺弐才
田畑屋敷反別合拾八町弐反弐畝拾弐歩
此高百六拾三石弐斗五升五合弐勺九才
取米七拾壱石八斗三升弐合三勺四才
高三拾五石九升四合六勺七才 無地無反別之
取米拾五石四斗四升壱合六勺六才
米三斗六升六合七勺三才 永荒引
合高百九拾八石三斗四升九合九勺六才
取米八拾七石六斗四升七勺三才
内 延米口米共
米三斗六升六合七勺三才 右永荒引
差引
納米八拾七石弐斗七升四合
美濃部栄次郎知行所
一 高弐百石
内無地添高三拾五石六升六合七勺九才
反別拾七町四反九畝八歩
此内訳 此石盛壱反ニ付
上田合弐町九反五畝弐拾歩 壱石五斗
中田合弐町弐反壱畝八歩 壱石弐斗
下田合五町八反九畝弐拾四歩 七斗
田反別合拾弐町七反弐拾弐歩
此高百三拾五石六升九合弐勺四才
取米五拾七石八斗九升
高壱石ニ付四斗弐升八合六勺
石盛壱反ニ付
上畑合壱町九畝拾四歩 九斗
中畑合壱町七反七畝壱歩 六斗
下畑合壱町六反七畝拾八歩 三斗
屋敷合弐反四畝拾三歩 壱石
畑屋敷反別合四町七反八畝拾六歩
此高弐拾七石弐斗八升六合壱勺
取米拾壱石六斗九升五合六勺四才
田畑屋敷反別合拾七町四反九畝八歩
此高百六拾弐石三斗四升六合弐勺五才
取米六拾九石五斗八升六合
高三拾五石六升六合七勺九才 無地無反別之
取米拾五石弐升九合五勺八才
合高百九拾七石四斗壱升三合四才
取米八拾四石六斗壱升三合弐勺壱才
内 延米口米共
米九斗三升四合八勺五才
差引納米八拾三石六斗七升六合三勺六才
三木薫太郎知行所
一、高弐百石
内無地添高三拾四石九斗六升弐合六勺
反別拾七町六反五畝三歩
此内訳 此石盛壱反ニ付
上田合四町壱反弐畝五歩 壱石五斗
中田合弐町七反八畝拾三歩 壱石弐斗
下田合五町四反九畝弐拾七歩 七斗
田反別合拾弐町四反拾七歩
此高百三拾三石七斗三升九合九勺六才
取米五拾八石九升六合六勺四才
但高壱石ニ付四斗三升四合四勺取
上畑合八反七畝弐拾歩 石盛九斗
中畑合弐町壱畝弐拾壱歩 六斗
下畑合弐町壱反八畝弐拾三歩 三斗
屋敷合壱反六畝拾弐歩 壱石
畑屋敷反別合五町弐反四畝拾六歩
此高弐拾八石壱斗九升五合
取米拾弐石弐斗四升七合九勺
田畑屋舗反別合拾七町六反五畝三歩
此高百六拾壱石九斗三升五合
取米七拾石三斗四升四合五勺六才
高三拾四石九斗六升弐合六勺
取米拾五石壱斗八升七合七勺五才
合高百九拾六石八斗九升七合六勺
内取米八十五石五斗三升弐合三勺壱才
延米口米共
米六升 池代米引
〃九升
一米壱石五斗 永荒引
差引納米八拾四石三升弐合三勺壱才
中山攸之丞知行所
一、高百三石七斗六升六合
内無地添高拾四石三斗四升六合
反別拾町三反八畝弐歩
此内訳 此石盛壱反ニ付
上田合壱町弐反四畝弐拾八歩 壱石五斗
中田合壱町三反四畝拾七歩 壱石弐斗
下田合弐町九反六畝弐拾六歩 七斗
田反別合五町五反六畝拾壱歩
此高五拾五石六斗六升八合六勺四才
取米弐拾四石八斗八升三合八勺八才
但高壱石ニ付四斗四升七合取
上畑合八反三畝四歩 石盛九斗
中畑合三反弐拾五歩 六斗
下畑合三反五畝弐拾三歩 三斗
屋敷合三畝拾四歩
壱町五反三畝六歩 弐反四畝廿三歩 宝暦替地分
畑屋舗反別合壱町七反七畝廿五歩
此高拾石七斗五升壱合六勺三才
取米四石八斗五合九勺七才
田畑屋舗反別合七町九畝拾七歩
此高六拾六石四斗弐升四勺七才
取米弐拾九石六斗八升九合七勺四才
三町弐反八畝拾五歩
落地田地石盛七斗
此高弐拾三石
取米拾五石壱斗三升四合
六斗五升八合取
高拾四石三斗四升六合 無地無反別之
取米六石四斗壱升弐合六勺六才
合高百三石七斗六升六合
取米五拾壱石弐斗三升六合四勺壱才
内米六斗弐升五合 永荒引
差引納米五拾石六斗壱升壱合四勺壱才
森川采女知行所
一、高弐百石
内無地添高三拾五石壱斗五升壱合四勺
反別拾九町壱畝拾壱歩
此内訳 此石盛壱反ニ付
上田合弐町三反弐畝七歩 壱石五斗
中田合三町七反六畝八歩 壱石弐斗
下田合七町七反壱畝拾八歩 七斗
田反別合拾三町八反三歩
此高三拾三石九斗九升四合
取米五拾九石六斗弐升七合三勺壱才
但高壱石ニ付四斗四升五合
上畑合壱町弐反八畝三歩 石盛九斗
中畑合壱町壱反六畝弐拾六歩 六斗
下畑合弐町四反九畝拾五歩 三斗
屋敷合弐反六畝弐拾四歩 壱石
畑屋敷反別合五町弐反壱畝八歩
此高弐拾八石七斗六合
取米拾弐石七斗七升四合壱勺七才
田畑屋舗反別合拾九町壱畝拾壱歩
此高百六拾弐石七斗五合三勺
取米七拾弐石四斗壱合五勺
高三拾五石壱斗四升壱合七勺 無地高無反別之
取米拾五石六斗四升弐合三勺七才
合高百九拾七石八斗五升壱合七勺
取米八拾八石四升三合八勺七才
延米口米共
内米壱石六斗 永荒引
差引納米八拾六石四斗四升三合八勺七才
内藤修理知行所
一、高弐百石
内
無地添高三拾四石九斗壱升八合弐勺四才
反別拾九町六反九畝歩
此内訳 石盛壱反ニ付
上田合弐町六反弐畝壱歩 壱石五斗
中田合弐町三畝拾壱歩 壱石弐斗
下田合九町八反壱畝四歩 七斗
田反別合拾四町四反六畝拾六歩
此高百三拾弐石三斗八升七合九勺九才
取米六拾石八斗九升八合四勺七才
高壱石ニ付四斗六升取
上畑合壱町三反壱歩
中畑合壱町三反七畝壱歩
下畑合弐町三反壱畝弐拾弐歩
屋敷合弐反三畝弐拾歩
畑屋敷反別合五町弐反弐畝拾四歩
此高弐拾九石弐斗七升三勺八才
取米拾三石四斗六升四合三勺八才
田畑屋舗反別合拾九町六反九畝歩
此高百六拾壱石六斗五升八合三勺七才
取米七拾四石三斗六升弐合八勺五才
高三拾四石九斗壱升八合弐勺四才 無地無反別之
取米七拾四石三斗六升弐合八勺五才
合高百九拾六石五斗七升六合六勺壱才
取米九拾石四斗弐升五合弐勺四才
内米四斗 永荒引
差引納米九拾石弐升五合弐勺四才
加藤岩太郎知行所
一、高七拾六石八斗五升六合三勺八才
内
無地添高拾三石六斗五升壱合七勺六才
反別六町七反弐畝弐拾三歩
此内訳 此石盛壱反ニ付
上田合壱町五反六畝拾三歩 壱石五斗
中田合九反四畝拾五歩 壱石弐斗
下田合弐町四反八畝弐拾九歩 七斗
田反別合四町九反九畝弐拾七歩
此高五拾弐石弐斗三升弐合六勺五才
取米弐拾五石三斗九升五合五勺壱才
但高壱石ニ付四斗八升六合弐勺取
此石盛壱反ニ付
上畑合六反六畝弐拾九歩 九斗
中畑合四反八歩 六斗
下畑合五反七畝拾九歩 三斗
屋舗合八畝歩 壱石
畑屋舗反別合壱町七反弐畝弐拾六歩
此高拾石九斗七升壱合九勺七才
取米五石三斗三升四合壱勺八才
右同断
田畑屋舗反別合六町七反弐畝廿三歩
此高六拾三石弐斗四合六勺弐才
取米三拾石七斗弐升九合六勺九才
高拾三石六斗五升壱合七勺六才 無地無反別之
取米六石六斗三升七合四勺八才
合高七拾六石八斗五升六合三勺八才
取米三拾七石三斗六升七合壱勺七才
延米口米共
内米四斗 永荒引
同壱斗八升 堰代引
一、米五斗八升
差引納米三拾六石七斗八升七合壱勺七才
稲荷社領
一、高三拾石 無民家
御朱印無反別 森川采女附属
給々
合高千百九拾九石三斗四升三勺九才
同断不足
合高拾三石五升五合壱才
弐口
合高千弐百拾弐石三斗九升五合四勺
給々
合反別百拾町弐畝八歩四厘
同取米
合五百弐拾四石八斗五升六合九勺四才
同永荒引米
合六石六合五勺八才
差引納米
合五百拾八石八斗五升三勺六才
納永壱貫弐百九拾五文八歩
右之通相違無御座候
牧野助重郎知行所
名主 八十八
美濃部栄次郎知行所
名主 清助
三木薫太郎知行所
名主友右衛門
中山攸之丞知行所
名主孫左衛門
森川采女知行所
名主 伝助
内藤修理知行所
名主 善作
加藤岩太郎知行所
名主 弥助
慶応四辰年(一八六八)六月 組頭久左衛門
百姓代万右衛門
多古
御陣屋
御奉行
辻 斉宮殿
野村又兵衛殿
高橋 閑平殿
御代官
五十嵐佐一郎殿
寺田 弥七殿
鈴木 量平殿
以上が各旗本の知行内容である。
次に、これらの旗本各家について、その概略を述べてみる。
内藤家 初め武田信玄・勝頼父子に仕え、武田家滅亡後の天正十年(一五八二)から徳川家に仕えた。初代当主は内藤正重(源助)である。
正重の孫正総(源左衛門)は、元和十年(一六二四)に知行地を武蔵国(東京都)多摩郡・上総国埴生郡(山武郡)・下総国香取郡の三郡内に与えられてすべて八百五十石となり、この頃から村の一部を支配するようになったと思われる。
以来明治初期までその支配は続けられ、維新時の当主が修理である。最後の総石高も八百五十石で、郡内にはほかに知行地は持たなかった。菩提寺は牛込の善国寺である。
森川家 もと織田家に仕え、永禄八年(一五六五)から徳川家家臣となった。
いくつかの分家があるが、その一家に森川重次(清八)がある。重次は天正十九年(一五九一)に二百石を父から分知されて一家を創立した。五代昌勝(八左衛門)は元禄十年(一六九七)に下総国豊田郡(茨城県)・香取郡・武蔵国足立郡の三郡内へ知行地を替えられたがその頃から村の一部の支配が始まったようである。
それ以後明治まで総石高六百五十石のまま継続し、郡内の他村に知行地はなかった。旗本として最後の当主は采女で、牛込の幸国寺がその菩提寺である。
中山家 初めは北条氏輝の家臣で、代々節義の固いことで知られた家柄であった。北条氏没落の後は武蔵国高麗郡加治郷へ隠退したが、天正十八年(一五九〇)に家康に召し出されて徳川家の家臣となった。
この分家筋に中山直張(藤兵衛)があり、正保二年(一六四五)に武蔵国新座郡・上総国武射郡の二郡内に知行地を与えられて一家を構えた。
二代直好(藤右衛門)が元禄七年(一六九四)に知行地を香取郡内に移され、そのときから村の一部の支配が始まったようである。
以来明治の当主攸之丞まで続いたが、総石高は五百石で、郡内には当地域のほか山之辺と新市場に知行地があった。菩提寺は武蔵国高麗郡中山村の能仁寺である。
三木家 飛騨(岐阜県)の国司を勤める家柄であったが、自綱のときの天正十三年(一五八五)、佐々成政に加担して豊臣氏の命に従わなかったことから任地を追われ、武家を捨てて出家した。
四男近綱(十兵衛)は京都隠棲中の慶長十九年(一六一四)に徳川家に召し出され、その後大坂両度の陣における軍功によって、元和元年(一六一五)に下総国香取郡内に知行地を与えられた。村の一部を支配するようになったのもその頃からのことと思われる。
そしてその支配は明治の当主薫太郎に至るまで続いた。総石高は七百石で、郡内では染井・観音の地もその知行地であった。菩提寺は浅草の海禅寺である。
加藤家 はじめ豊臣家の家臣であったが、天正十四年(一五八六)成之のときから徳川家に仕えた。この分家に正方(庄兵衛)があり、元和元年(一六一五)に、河内国(大阪府)内の三郡内に知行地を与えられて独立した。寛永十年(一六三三)に下総国香取郡内で加増されて知行高が六百石となり、その頃から村の一部を支配するようになったと思われる。
以来明治まで続き明治初期の当主は岩太郎である。郡内では新里もその知行地であった。菩提寺は下谷の宗源寺である。
美濃部家 美濃部家はもと菅原姓で、右大臣道真公より十三代目の元茂のときから美濃部を称し、その子孫から分家した茂久(市左衛門)の子が茂広(鹿之助)である。天正十年(一五八二)から家康に仕え、のち近江国(滋賀県)甲賀郡内に三百十石余の采地を賜わった。
その長男茂正(市郎左衛門)が寛永十年(一六三三)に下総国香取郡内に二百石を加えられたが、そのときから村の一部を支配するようになったものであろう。
以来その支配は明治まで変ることなく続き、明治初期の当主は栄次郎であった。総石高は七百十石で、菩提寺は四谷の西念寺である。
牧野家 もとは織田・豊臣両家に仕え、慶長八年(一六〇三)成里(伝蔵)のときから徳川家の家臣となっている。
この分流に正重(助平衛)があり、永禄九年(一五六六)に采地を与えられて独立した。その孫正照(助平衛)は寛永十年(一六三三)に下総国香取郡内で二百石を加えられてその知行がすべて七百石となった。そのときから村の一部を支配するようになり以来明治まで続いた。
明治初期の当主は助重郎といい、菩提寺は青山の玉窓寺である。
小川達太郎 旗本ではなく関東郡代役所の役人である。大名や旗本の領地または知行地ではなく、幕府が直接に所領している土地の支配人である。
当地域の場合は、各旗本へ知行地として分与された後に開拓された土地を管理させていたようである。したがって直属の村方役人(名主など)はなく、各旗本に属する名主達が交替で年番名主となり、支配人小川氏の指示を受けて年貢などに関する業務を行なっていた。
稲荷社領 御朱印地三十石は神社運営費に充てた土地で、幕府旗本へ年貢を納めることはなく、その収益のすべては松崎神社の収入となった。
土地の面積は、明治初期の測量によると、神社境内が一町三反五畝歩、水田が二町七反三畝一八歩、畑と屋敷が一町二反三歩で、その位置を今でも知ることのできる絵図が残されている。