ビューア該当ページ

神領の治政

873 ~ 875 / 1069ページ
 神領の行政は、神社の運営を兼ねて神官がそれに当っていた。旗本からの指示で名主が村治に携わっていた知行所とは異なり、直接寺社奉行の支配下にあった神領では神官が名主同様に管理支配し、問題が起きた場合は直接奉行所に訴えることもできた。
 ここに当社に関する内容を詳細に記した日記・古文書が世襲神官の松崎家に残されていたのでその内から二、三のものを採り上げて次に記してみる。
 
 明暦四年(一六五八)大中臣重次造営仕リ候由申伝者也、御本社者屋禰コケラ二重軒二重タルキ拝殿者萱屋禰   タルキ壱重両入モヤ付、柱敷居鴨居ナケシ等ハ楠木也
 御本社者前之通中殿拝殿及大破候故、新ニ造営屋根コケラ軒二重ニ而六寸平足壱寸向 足八方板長サ壱尺谷ハ壱尺三寸、一寸十弐枚フキ、柱長サ壱丈壱尺八寸五分、渡リ八寸弐分向並柱壱尺五分角
 宝暦六子(一七五六)三月ヨリ始、同寅三月廿八日棟上、同八月十九日屋禰棟上、又曰七月廿八日細工始。
 明暦四歳ヨリ当寅歳迄一百三年ニ成
当時神主式部大中臣朝臣行高 行年廿六歳
当時社家    平野求馬  行年五十八歳
        平野三右衛門行年六十八歳
        平野帯刀  行年五十七歳
        平野武兵衛 行年五十三歳
        平野主計  行年三十八歳
        平野数馬  行年卅六歳
一、求馬ハ江戸ヘ登リ居故忰大助十八歳勤ル
 武兵衛同断故忰金治十六歳相勤
 (宝暦六年(一七五六)『松崎行高日記』より)

 

一、八月初方より一ノ鳥居細工始ル、八月十日古鳥居破ル、男柱ホソニ書付有之左之通
 享保十二年丁未(一七二七)二月廿九日建
  施主大寺村 桑田吉右衛門
  大工大寺村 日色義兵衛
  大工大寺村 林 久七
  大工松崎村 平野兵左衛門
  木挽〃   平野平兵衛
 右之通有之古ノ柱挽割カサキ上ノ方クサレ候ニ付足シ繕フ、カサキ台輪額ツカ、ヒヌキハ古ノヲシラケ用
一、九月二日、鳥居建村方人足出ス、人足ヘ酒かし出ス
              (中略)
 施主大寺村 桑田十郎兵衛吉次 七十四歳
          孫千代蔵
 右両人上下ニ而来リ祝儀盃座之連
  大寺世話人 桑田源左衛門 六十歳
  当村同断  平野与左衛門 七十八歳
  大工当村飯田延蔵、大寺勇蔵此両人斗ニ而拵故両棟梁ニ成、木挽当村平野  是ハ棟祭迄ハ不登酒盛ヘ不出
(寛政五癸丑(一七九三)『松崎行高日記』より)