ここに当社に関する内容を詳細に記した日記・古文書が世襲神官の松崎家に残されていたのでその内から二、三のものを採り上げて次に記してみる。
明暦四年(一六五八)大中臣重次造営仕リ候由申伝者也、御本社者屋禰コケラ二重軒二重タルキ拝殿者萱屋禰 タルキ壱重両入モヤ付、柱敷居鴨居ナケシ等ハ楠木也
御本社者前之通中殿拝殿及大破候故、新ニ造営屋根コケラ軒二重ニ而六寸平足壱寸向 足八方板長サ壱尺谷ハ壱尺三寸、一寸十弐枚フキ、柱長サ壱丈壱尺八寸五分、渡リ八寸弐分向並柱壱尺五分角
宝暦六子(一七五六)三月ヨリ始、同寅三月廿八日棟上、同八月十九日屋禰棟上、又曰七月廿八日細工始。
明暦四歳ヨリ当寅歳迄一百三年ニ成
当時神主式部大中臣朝臣行高 行年廿六歳
当時社家 平野求馬 行年五十八歳
平野三右衛門行年六十八歳
平野帯刀 行年五十七歳
平野武兵衛 行年五十三歳
平野主計 行年三十八歳
平野数馬 行年卅六歳
一、求馬ハ江戸ヘ登リ居故忰大助十八歳勤ル
武兵衛同断故忰金治十六歳相勤
(宝暦六年(一七五六)『松崎行高日記』より)
一、八月初方より一ノ鳥居細工始ル、八月十日古鳥居破ル、男柱ホソニ書付有之左之通
享保十二年丁未(一七二七)二月廿九日建
施主大寺村 桑田吉右衛門
大工大寺村 日色義兵衛
大工大寺村 林 久七
大工松崎村 平野兵左衛門
木挽〃 平野平兵衛
右之通有之古ノ柱挽割カサキ上ノ方クサレ候ニ付足シ繕フ、カサキ台輪額ツカ、ヒヌキハ古ノヲシラケ用
一、九月二日、鳥居建村方人足出ス、人足ヘ酒かし出ス
(中略)
施主大寺村 桑田十郎兵衛吉次 七十四歳
孫千代蔵
右両人上下ニ而来リ祝儀盃座之連
大寺世話人 桑田源左衛門 六十歳
当村同断 平野与左衛門 七十八歳
大工当村飯田延蔵、大寺勇蔵此両人斗ニ而拵故両棟梁ニ成、木挽当村平野 是ハ棟祭迄ハ不登酒盛ヘ不出
(寛政五癸丑(一七九三)『松崎行高日記』より)