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厳島神社

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 字仁良切九〇四番地に鎮座し、毎年二月十一日には御奉社の神事も続けられている塙区の鎮守社である。別名信夫山とも呼ばれる山の頂にあり、丘を包む松杉の緑と朱塗りの鳥居が神域の壮厳さをあらわしている。

厳島神社

 この社は厳島神社、八王子神社、天満神社の三社が合祀されたもので、それを記念して建てられた一の鳥居には「大正六年五月合祀紀念」と大きく刻まれている。
 境内には幾つかの小祠と奉献物があるが、二つある石造手洗いには「奉納 慶心二丙寅(一八六六)正月 願主法王山筆子中 世話人平山友右衛門 平山平右衛門 佐藤半右衛門」「奉献 文政十二己丑年(一八二九)九月吉日 人足氏子中願主当村佐藤常吉」とそれぞれ刻まれている。
 石宮には「妙正大明神 嘉永二年酉(一八四九)十一月吉日 忠太郎」「大弁財天女 文政六未(一八二三)九月吉日」「天満宮 元文四未(一七三九)九月吉日 松崎村佐藤重郎兵衛」と刻まれたものが見られ、他に神名、年月日の不明な小石宮もある。
 次に合祠前の三社がそれぞれどのようなものであったかを、資料によってたずねてみる。
 まず厳島神社について明治九年の『神社明細帳』は、
 
   第十五大区五小区下総国香取郡東松崎村鎮座字池向造立
                              松崎大神境外末社 厳島社
一、本社 木造竪六尺横九尺 拝殿木造竪三間半横二間 手洗石造壱箇 華表木造壱箇 燈籠石造三箇 手洗鉢雨覆無之 玉籬周リ十二間
一、祭神 市杵嶋姫命
一、勧請 年記不詳
一、旧号弁天社 改号明治三午年正月
一、神位 無之
一、祭日旧暦正月十二日
一、社地現境内旧反別不分 現反別九畝廿九歩
  (以下略)
 右之通取調候処相違無御座候 以上
   明治九年十一月
                                    右社祠掌松崎重幸
                                      用掛飯田善作
                                      用掛林久左衛門
  千葉県令柴原和殿
 
 このように記している。
 『常磐村郷土誌』によると、勧請は承応二年(一六五三)ではじめは能満寺境内にあり、それを元禄十六年(一七〇三)四月に信夫山へ移遷したものであるという。
 また別当能満寺十三世日政の書になる棟札があって、当時の地頭三木平八郎・牧野助十郎・中山下野守・美濃部新左衛門・加藤庄兵衛の五氏より玄米一俵宛を寄進されたということである。
 丘の麓には弁天池があり、そこからの流れを千歳川と呼んだというが、耕地整理された現在では池は水田に変り、千歳川も用水路の一つとなっている。
 ちなみに、通称弁天様と呼ばれているこの神社の本社は、「安芸の宮島」の名で知られ、平清盛が厚く崇敬したという厳島神社である。祭神は「弁天様」として親しまれる市杵島姫命と、ほか二柱の女神で、人々に幸福を与え、子孫を繁栄させる神とされている。