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由緒・縁起

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 その歴史は古く、大同三年(八〇八)清澄山を開いた不思議法印の開山といわれ、宗旨は真言宗であったが、文永の頃(一二六四~七四)日蓮上人と当時の住職魏円(のち日魏)との法論の結果、日蓮宗に改宗した。
 十一世日耀のとき、その博学と人格を慕った多くの学僧が集まり、講を開いて松崎檀林となり、のちに徳川家康から制札を付与され、また、水戸徳川家初代頼房からは母堂英勝院の菩提を弔うためとして二十四石余の寺領寄進を受け、寺運は隆盛の道を辿った。
 しかし、十四世寿量院日遺は禁制の不受不施派であったため佐渡へ流刑となり、檀林は閉されて学徒は去り、寺領も失うことになった。その後身延受派に改宗したものの寺運を回復することはできなかった。
 元禄中期に水戸徳川家二代光圀が当寺に参詣したとき、かつての名刹の衰えを歎き、住職日良の願いを容れて、祖母英勝院を弔うため父頼房が寄進した田圃を再び寺領として還付したという。
 以下、同寺に伝わる古文書によってその跡をたずねてみることにする。
 
   由緒書                                  下総国松崎顕実寺
     寺起年号月日等
一、寺起立之儀者、人皇五十一代平城天皇之御宇大同三年(八〇八)不思議法印草創仕候而法王山玄慈寺と申候、其後文永年中(一二六四~七四)祖師日蓮当国遊化之節、時之住持大僧都大覚樹阿闍梨円魏法印改宗仕日蓮弟子ニ相成候、日魏と改名仕候、山号者古来之通法王山と申候寺号を改法王山顕実寺と申候
一、改宗已後日魏を開基と而、拙寺十一世権大僧都常寂院日耀代永正年中(一五〇四~二〇)檀林ニ相成候、法喜山妙講寺と相改申候、宗門学校相成申候、其後天正年中(一五七三~九一)古来ニ相復シ法王山顕実寺と申来候
一、拙寺歴代之内日祐儀中山三世ニ而拙寺江隠居仕候故、以来中山之隠居所相定申候、其故諸役免除ニ御座候
一、中山四十七世日潤依旧例諸役免除之本尊御座候
一、其後任旧例三寺同道ニ而正中山直寺隠居所相定者也、依而如件
   元禄二年巳(一六八九)七月日
                                    拙寺二十一世紫雲院日逢代
 
   諸堂間数
一、講堂 桁行拾三間、奥行九間
     惣而悉ク下リ桧木起立年暦相知不申候
一、弁財天 本社九尺四面
一、拝殿 桁行三間、奥弐間半
     神躰者三躰、此内壱躰者弘法大師之作裏書切附空海ト判御座候、尤赤  之如ク成、原木ニ一円ニ如ク彫込候古雅体ニ御座候、改宗之砌日蓮開眼
一、梶御前様御守本尊壱躰、作者並年号相知不申候
一、同前立壱躰
一、功徳天女壱躰
一、釈迦像壱躰、日蓮開眼
一、日蓮像壱躰、開基日魏之作
一、千仏堂、三間奥行弐間半
一、鐘楼門、中門、惣門、裏門
一、庫裏、起立後一千年余ニ及申候
一、書院、居間
  境内坪数
一、享保十三戊申(一七二八)十二月、小出信濃守様御掛リ境論出入御裁許済口境内絵図面ニ弐万五千五百五拾壱坪半と御座候
一、祖師日蓮之大本尊、久遠成院日親之究
一、日像之本尊
一、開山日魏之像
一、画像壱幅
一、独鈷法螺貝等御座候
一、愛染明王、不思議法印祈祷本尊
   御由緒
一、英勝院様尊脾御安座之儀者乍恐御在寿之御名梶御前様と奉称候、太田資宗法号道顕公御伯母日宗上人御妹君、御在寿之間拙寺を厚被為遊御信仰候
 
   旧記曰
 大檀越 水戸府君黄門頼房公御母堂
 法諱  英勝院殿清春大姉、六十五歳御逝去、寛永十九年壬午(一六四二)八月廿三日
     太田資宗法号道顕公伯母日宗之妹君
 右之通ニ御座候
 
一、乍恐
 東照神君様御入国以後御制札御紙面被成下御文言
    せい札
 右竹木くねかきさらし以下取之狼籍いたす者有ら者からめ取急度可申上者也 依而如件
   子十一月十九日
 
   禁制     法王山顕実寺
一、境内主郷不入竹木等きり取事
一、狼籍之事
一、境内垣やふる事
   子十一月十九日     奉行
 是は高札ニ而門外ニ差出申候、尤従御公儀被仰渡候御本紙者秘之置申候
右者梶御前様御吹挙遊御制札成下候
 
一、拙寺、弐拾四石余田畑御   旧記曰英勝院様為御菩提慶長年中、源威光様御代当寺江被為附置候田畑廿四石余等
    未二月
                                         下総松崎顕実寺
  水戸寺社御奉行所
 右者正徳五年未(一七一五)二月拙寺田畑争論之節、従御館奉蒙御尋候ニ付奉申上候旧記御座候、此節御役人小笠原小野右衛門殿ニ御座候
 
一、元禄年中黄門義公様御代拙寺廿二世日良義御目見仕候節、拙寺由緒之義奉蒙御尋依之、乍恐梶御前様御在寿之間御取扱等、尊牌御安座之様子並田畑御寄附之趣等奉申上候、其節御紋附紫紋白袈裟拝領被仰付候、難有頂戴仕候而永く寺宝仕候
一、義公様御直翰被成下候御文言左之通ニ御座候
 昨日初得清話披雲華之等何  任到来干菓子一筐投之机右聊慰閑寂耳不宜
   孟陬廿一日      光圀
    日良上人
 
 義公様西山御殿被為在候節、度々御目見被仰付候時其後御直翰成下御文言
 為年甫之嘉儀先頃者遠路御入来特一品携来欣喜至候其節他之不接芝眉残念不少候申謝如此頓着
    二月三日                                 西山隠士光圀
  顕実寺日良上人猊座下
 
一、綱条卿様御真翰(水戸徳川家三代当主)勿以善小而不為、勿以悪小而為之
   羽林 印
 
一、元禄八年(一六九五)下総国御道行被為成候之砌、拙寺江被為遊入御候暫時御逗留被為遊候、英勝院様尊牌御料被為遊其節尊牌御直筆を以御改被成下候、乍恐尊牌御粧形容御表
  顕祖姓太田太人英勝院清春禅定尼神位
                  孝孫源光圀奉祀
  右者御表面隷書彫刻紺青入
  御内彫込之底
  故太夫人源姓太田氏諱梶子之神主
  右者墨書
  御裏楷書彫刻
  太夫人嘗侍、東照公世帰法花故置田圃二十有四石余於下総国香取郡松崎村顕実教寺以為冥資、後因異派諍論衰廃有年、予偶過此感慨居多今也、新彫木主再安殿堂傍云
  右之通ニ御座候
 
一、義公様其節御位牌所ニ御定被成下永々尊牌奉守護候様被仰附候、尤寛永年中以来無怠 八月廿三日御正当忌末寺山内衆徒一同ニ御法事修行奉申上候
一、法花経一部紺紙金泥、黄門光圀公様
一、御紋付高張挑灯 壱
一、御紋付銚子大盃
一、朝鮮本之添品法花経 梶御前様
右者従梶御前様御頂戴仕寺宝ニ仕候
一、義公様御尊牌御安座奉祀候、毎年極月六日末寺登山之上御法事奉申上候
一、前段之趣重 奉蒙御深恩候儀故年々可奉拝賀之処、二十二世日良儀御目見仕候節御日延ニ而遠路之事故ニ年々登城等御宥免被成下候、住寺替リ之節者御目見江被御渡候
一、拙寺御寄附田畑者、梶御前様御在寿之御時より之御納ニ御座候、従往古曰く御舘様長日御祈祷奉申上候
   文化六年巳(一八〇九)三月
                                   法王山顕実寺 印
                                         二十九世日籌
  小石川御舘寺社御奉行所
 
 右に掲げた文書は、当時の実態を知る上できわめて重要なものであるが、禁制宗門を宣揚したことにより弾圧を受け、能化のうちで歴代から除歴されたものもあり、事実を書き替えねばならない時代を経たものである。
次に、当寺歴代を記して参考に供したい。
 
         当山歴代
  開山  [真言ノ時円巍呼法印] 大覚樹院日巍上人
  二世                 日進聖人
  三世  [正中山三祖 二世日高上弟子] 日祐聖人
  四世                 日達聖人
  五世                 日住聖人
  六世                 日融聖人
  七世                 日敬聖人
  八世                 日頼聖人
  九世                 日顕聖人
  十世                 日妙聖人
  十一世 [談林之祖 権大僧都]  常寂院日耀聖人
  十二世  化主            日悦聖人
  十三世  化主            日純聖人
  十四世  化主            日芳聖人
  十五世             照幡院日逞聖人
  十六世             統蓮院日義聖人
  十七世                日観聖人
  十八世             修善院日通聖人
  十九世                日宏聖人
  廿世                 日感聖人
  廿一世             紫雲院日逢聖人
  廿二世             堯運院日良聖人
  廿三世                日受聖人
  廿四世  在住四十一年     願成院日理聖人
  廿五世             摂心院日浩聖人
  廿六世             了遠院日解聖人
  廿七世             本寿院日量聖人
  廿八世 [飯高中座東山文講]   是運院日環聖人
  廿九世 [飯高中座山科化主]   一玄院日籌聖人
  三十世 [飯高四ノ側ニテ入院 二ノ側ニテ退去] 妙道院日護聖人
  三十一世 [飯高中座山科文講]  俊善院日貞聖人
                  当山講堂再建主勲功多
  三十二世 [飯高中座山科文能]  教運院日理聖人
                  当山庫裡再建立
  三十三世 [飯高中座山科文能]  順妙院日周聖人
  三十四世            妙上院日領聖人
  三十五世 飯高玄講       妙深院日譿聖人
 
 このように記され、欄外に「十四世日芳十五世日逞、中間講主十二代法理卒背故依于正中山之下知ニ不歴代ニ日賢 日頣 日遣 日遷 日遣(ママ) 日調 日運 日饒 日述 日逗 日瑤 日禅此十二世」と、除歴となった講主の名が書かれている。
 また、正徳五年(一七一五)には、二十四石余の寄進地返還をめぐって、寺院側と名主たちの争いがあり、そのことが次の文書に示されているが、その内容は多くの意味を含んだもので、貴重な資料といえる。
 
     取替証文之事
一、下総国香取郡松崎村顕実寺訴上候者、慶長年中従水戸様英勝院様御菩提のため田畑弐拾四石余御寄附被遊置候処、中頃無住之節末寺相談之上右田畑松崎村名主共方江預ケ置、其後元禄年中日逢住職之節右田畑相返し候由、然共年久敷無住ニ而田畑反別聢ト不相知候故、右名主共申 次第ニ受取置候由、拙僧儀拾四年以前未之年ゟ(より)顕実寺住職仕候処、村中ニ田畑渡し残り有之隠置候段及承候間、去る年致吟味候得者、相残り五ケ所隠置候由ニ而田畑相返し申候、仍之名主共隠地仕置誤り候旨之証文差出し候ニ付其分致し請取置候、然処ニ右名主共申候ハ御寄附高弐拾石余之御年貢ハ前々之通り指出し、外ニ此度相渡し候五ケ所分年貢ハ格別ニ候間、向後年貢増し候而可納旨申候得共、右五ケ所共ニ御寄附高弐拾四石六斗四升弐合四勺八才之内ニ而、三年以前吟味之上隠置誤リ候間之証文相渡し其上増年貢差出し候様ニ申候儀何共迷悪至極ニ奉存候、且又従水戸様右高御寄附被遊候砌ハ、松崎村者大久保相模守様御知行所ニ而其後土井大炊頭様御知行所ニ罷成候節新検御改被成、右御寄附高弐拾四石余之分ハ御除被下候也承伝候得共右水帳隠置候哉無之由ニ而見せ不申、是又無覚束奉存候
一、古来より顕実寺談所山と申持山御座候処ニ、是又先年無住之節致押領名主五人ニ而割取、役山と名付支配致来り申候、且又顕実寺弁財天者所之鎮守ニ而古来法末之田地御座候処、延宝年中房州より致引寺新寺能満寺建立仕り弁財天新社相立、右之田地能満寺江我儘ニ寄附仕候、右能満寺新寺茂顕実寺末寺㝡福寺と申寺地ニ而御座候を能満寺取立申候、右㝡福寺寺地之内ニ三畝六歩之処先年住寺年貢地を境内ニ囲御年貢諸役相勤候処ニ、此住寺幸山と申者代追都罷成候右三畝六歩之年貢地其外寺持来り候畑並ニはりま山ト申山御座候を、無住之内畑者御地頭江御差上ケ山ハ名主共江御とらせ被成候得者、此山茂(も)村之者共能満寺江寄附いたし候、依之去春御地頭牧野伝兵衛様江御訴申候得者年貢畑ハ顕実寺江御返し被成候、山之儀ハ名主共江申断候得共何角ト申相返し不申候、且又天神社並ニたての権見と申古来より除地ニ而顕実寺末寺真浄寺致別当罷有之候処ニ、右社地茂押領致村中土取場ニ致し残分者能満寺より法末為致申候、如斯無住之節より段々我儘成儀いたしめいわく仕候、名主組頭被召出御吟味之上田畑山林ともに向後明白ニ被成候様ニ奉願候旨申之。
 名主五人答候者、慶長年中従水戸様顕実寺江田畑弐拾四石余御寄附被遊候由之処、中頃顕実寺無住之節当村名主共方江預ケ申候其後元禄年中日逢入院之節右田畑不残相返し申候、然処ニ顕実寺当住寺御寄附之内田畑五ケ所隠置候旨申之候得共、先年顕実寺境内ニ並居申候百姓屋敷三軒境内江入添候而、其為代地田畑四ケ所顕実寺より被差出候処、今更名主共之内隠置候田畑之由度々被申候故無是非三年以前ニ相渡し申候得共、是ニ而茂御寄附高ニ不足之由被申候付、椿下玄慈寺ト有之を下田壱反弐畝十四歩之処壱ケ所都合五ケ所相渡申候、惣而慶長年中之水帳に茂御寄附之訳ケハ相不知候得共、談所分と有之を不残相済申候、然上者右五ケ所之分者御寄附高弐拾四石余之外物ニ候間、増年貢被指出候様ニ申候得共何角と申承引不仕候、左様無御座候而者右五ケ所分田畑四反八畝十四歩之年貢可出方無之迷悪ニ奉存候、且又慶長年中御検地之後土井大炊様新検御改被成候 顕実寺被申候得共曽而以新検入候儀覚不申候、尤も水帳之類慶長之水帳より外無之、御地頭方江収納之儀茂此水帳を以致来り申候
一、顕実寺ニ談所山と申持来り候を名主共致押領之様ニ被申候得共、無跡かたも偽ニ而御座候、右山ハ西庭山と申候而往古より名主共持来り候ニ紛無御座候、且又弁財天之儀ハ先年鎮守ニ仕候節大小之百姓とも米壱升弐升づゝ差出し祭礼相勤来り申候、其後百姓とも困窮いたし迷悪之由申ニ付御地頭方江御窺申少々宮地不足を祭礼田取定権現之神事共ニ勤来リ申候、顕実寺離旦之後用水池ニ井堰之弁財天と申候而祭申候を、能満寺願請鎮守ニ仕数年祭礼仕来り申候、仍之為法示之右用水池之上ニ少し之百姓山有之此所江弁天引移し申候、然上者右祭礼田顕実寺少茂構無御座候、其上右能満寺者新寺之由被申上候得共、延宝年中大久保加賀守様御知行所之節御願申房州加茂村能満寺と申一寺引移し申候、全以新寺ニ而無御座候、且又顕実寺末寺幸山と申住寺追都ニ罷成候、後年貢地畑者御地頭江被取上ケ、はりま山ハ組頭共江被下配分仕候也、顕実寺被申之候得共右年貢地畑者牧野伝兵衛様知行所ニ御座候故、地頭江御取上ケ山之儀ハ前々より百姓ニ御座候故、右之段御地頭方江申断候而能満寺江寄附仕申候、然者右之山顕実寺より相構可申儀少も無御座候、天神社たての権現之儀顕実寺何角と被申候得共、天神社者顕実寺支配ニ候故百姓少も指図不申候、たての権現者往古より村中守護神ニ而古来より別当無御座候処、近年ニ至り能満寺を別当頼支配為致申候、然を百姓とも土取場ニ仕候抔被申上候儀以外成偽ニ御座候、如斯品々之儀、当顕実寺住職ニ罷成何角と六ケ敷儀共被申懸何とも村中百姓難儀仕候、以来難提成義不申様ニ奉願候旨申之争論ニおよび候ニ付、双方致召出御吟味之上先年従水戸様顕実寺江田畑廿四石余御寄附被遊候儀無坊ニ付、元禄年中日逢住職之節名主共田畑相返し右渡候、残り不足之分五ケ所三年以前是又相返候、其上名主共より其節差出候証文ニ御寄附高弐拾四石六斗四升弐合四勺八才田畑合廿四ケ所相渡候、都合いたし候上ハ前以来少も違乱申間敷旨連判ニ而差出し今更五ケ所分増年貢顕実寺ゟ差出し候様ニ申候儀難相定相聞候ニ付、御吟味之上心得違ニ而右之通り申候段奉誤リ候旨名主共不残口上書差上之候、且又山之儀ハ顕実寺持山之由難申之証拠一切無之、名主共儀役山ニ而支配致し来り由申之候得共、是又不証拠之上者何連の山とも難聞思召御吟味之上ハ右之山いか様ニも被御付候共少も申分無御座候旨双方口書差上之候、且又顕実寺より数ケ条願之儀申上之候ニ付逸々御吟味被成候処、何連茂申伝斗ニ而証拠之儀曽而無御座候得共、御吟味之上ハ得心仕前以来ニ御訴訟之儀少も無之旨顕実寺口上書差上之候、仍之被仰渡候者御寄附高廿四石六斗四升弐合四勺八才、年貢顕実寺より前々之通相納、其外増年貢等差出し申間敷候、寄附地之内旧年私欲仕候為御過怠名主共義者手錠被仰付候、且又山之儀ハ双方無証拠之上者松崎村中之持山と相聞候、然上ハ自今以後顕実寺並村中ニ而支配仕之以論仕間敷候旨急度被仰渡候奉畏候、若達而出入ケ間敷儀申出候ハヾ何分之曲事ニ茂可被仰付候、為後証依之連判証文差上ケ申処如件
                                 下総国香取郡松崎村
                                          顕実寺
                                  同国 同郡 同村 源兵衛
                                           権左衛門
                                           権右衛門
  正徳六年申(一七一六)四月廿一日                         六郎左衛門
                                            勘兵衛
 御評定所
 
 こうした変遷の後、寺運は再び盛んになるかと思われたが、ひとたび離檀した村内の檀家がもとの菩提寺へ復することはなかったようで、明治期にはその様相が大きく変り、同十二年の『寺院明細帳』には次のように記されている。
 
   千葉県管下下総国香取郡東松崎村字戸上
                                 日蓮宗 中山法華経寺末顕実寺
一、本尊十界曼荼羅
一、由緒 (同前記・省略)
一、本堂 縦七間横六間三尺
一、庫裡 縦六間横八間三尺
一、鐘楼堂 縦弐間横弐間
一、境内坪数 一千百二十坪
一、境内仏堂 壱宇 天女堂
 本尊 弁財天女
 由緒 抑モ本尊ト称シ安置スル天女ノ木像ハ、旧古真言宗ノ在時該祖空海上人ノ自作ナルモノニシテ、今ニ当寺ノ宝物ト称シ貴重セル所ノ木像ナリ、故ニ尚村民斉ク尊信スルヲ以テ該堂廃頽ニ及フ事ナシ、始終営繕ヲ加エ祭事今ニ至ル迄怠慢ナク罷在候
一、境外所有地
 耕地反別五町七反六畝壱歩 東松崎村の内
 山林〃 六反一畝十二歩 東松崎村の内
 宅地〃
一、住職 中戸川順要
一、檀徒人員 百七十四人
 右之通取調候処相違無之候也 以上
   明治十二年十一月廿四日
 
 そして現在は、四十一世日直竜健師が四一軒の檀家とともに本尊の十界大曼荼羅を護持している。