盍簪堂(こうしんどう)跡
『香取郡誌』によると、寛政五年(一七九三)六月に林直信、吉田世美、川島村の那須猗蘭たちが、播磨国(兵庫県)明石の人で方壺山人と称した佐々木信明(槍之助)を、文学の師として招き、のち、宇仁良切(韮切)の一角に師弟の労力によって二坪余の堂を建て、盍簪堂と称した。盍簪堂とは、易経から採ったもので、友の集まる堂という意である。
そして、この地方に今もなお文才に秀でた人が多くいるのは、同師の薫陶に起因するものであろうとしている。
同堂の跡を訪ねたが、厳島神社のあたりであろうということだけで、その場所を明確にすることはできなかった(なお後記『盍簪堂記』には、弁天社の松林の中にあるとしている)。
次に、佐々木師の遺稿の一部を抜粋し、当時の模様をみてみよう。
盍簪堂記
去歳壬子之冬、予因郡之学生林子温那須猗蘭吉田世美等之庇辱資衣食之費、且使三冬講習詩書、然而但末設書斉僑居乎田家囂塵猥雑殆将有鳳分之嘆也
越今玆癸丑夏六月択地郡南天女廟側松林之間矣是地也、茂松修竹花木欝葱谿間迸泉蘭菊吐芳即託、諸君謀営書斉僦数畝閑地、伐木挙土遂以開一丘園焉、於是乎諸君各自昼于茅夜索綯鳩材剏基不日成之、其堂之大不過十笏東嚮而軒(中略)
攀林南望則沃野千里相距十里許而高旦欝者妙雲之峯也自乾位而坤方翠巘丹嶂其上有松環焉其下稲田万頃若割鴻溝者左界之流也当其東北而蓊欝薈蔚者稲生之廟也最近且高者能満寺也堂之背傍山有天女之宮華表古雅祠壇荒凉此復一幽邃也其外内山小高宮本河島玉造諸村或隠于渓間或見于樹抄山中之勝不可尽数大抵春夏之於草木秋冬之於雪日奚竢余之言而名状乎(中略)
堂成之日因会諸君語曰、余所以主是堂者不獨躭静好擬遂初乎而欲使、諸君誦於斯詠於斯研究於斯討論於斯訂交勠力精勤孜々興隆文章黼〓斯道也、請扁之曰盍簪堂葢取諸易之明盍簪之語也。
且余幼時遘家難而養舅氏終以為薙染之徒、然性固不持儀検形質頽索縦情嫚情是以興世柄鑿不能得意流蕩海内糊口四方(中略)
方今葺牆功成、為諸君見推謬為待間之人喜愧交集焉、昔者漢之董仲舒下帷三年不窺園可謂勤焉如余豈敢也。願諸君日踵吾門読書作詩優游卒歳而莫使斯堂空対青山明月、則是余之願於是呼足云、
寛政第五舎癸丑秋九月朔、佐々木独有撰