村の起こりについては、他集落と同じように、それを証する史料はない。土仏地区に古墳があったといわれ、そこに埋葬され、また造営に携わった人々が、現在住む人達の祖先であるかもしれないといえまいか。しかし、その究明は、史実的に不十分なものでしかあり得ないのが残念である。
さらに、時代は新しくなるが、集落が存在したことを示すものとして、妙高寺境内に残る種字板碑がある。祖先供養のために造られたものといわれ、四枚ほどある板碑のうちの一つには、「右 者為 世 文和三年甲午(一三五四)十一月日」と読み取れる。この年号は南北朝時代前期後半のものである。
ここで、少なくとも古代の奈良時代以前には土仏古墳に関わる人達が住み、南北朝時代の文和三年頃には、先祖供養のために板碑を造った人々の生活があったことがわかるといえよう。
また、口伝の一つに、天慶二年(九三九)の平将門の乱のとき、当地周辺は将門軍の基地となっていたが、これを追討するために派遣された官軍は字浅間台に駐屯し、ついには夜襲によって将門軍を全滅させた。その後、両軍の戦死者を埋葬した地を土仏と名付け、一部の将兵がこの土地へ土着した。そしてその子孫が小川と坂へ移り住み、両村の祖となったといわれている。
もう一つの口伝として、最初に開拓されて人が住んだのは、土仏の傾城ケ谷(現山田町区域)である。やがて人家も増え、この地が、海辺の村々と香取を結ぶ内陸の要路沿いでもあったところから、宿駅として繁昌し、遊女を置く家までできた。このことが字名「傾城ケ谷」の起こりであるといわれている。
そして、遊女にまつわる次のような物語も伝えられている。
この街道に、嬌名高い一人の遊女がいたが、一つの病いを患い、そのことを日夜悩んでいた。ある日彼女を訪れる漂客の一人から、多くの神仏を参詣すると病が癒えると教えられ、諸国巡礼の旅に発って行った。
数年の後、故郷恋しさに土仏の地に帰って来たが、病いはますます重く、変り果てた姿に看護する者もないまま路傍に倒れてしまった。野ざらしとなって成仏できぬ魂は、しきりと供養を欲していたが、そうしたある時、坂の村に新しい僧侶が着任し、夜毎の夢に見る幽霊が気になってしかたがなかった。数日後、村人から遊女の話を聞き、早速墓を作って供養したところ、それから幽霊は夢に現われなくなったということである。