以上述べて来たような支配者と、それに納める年貢、国役を賦課された当村は、『常磐村郷土誌』に記録された数字から見ると、慶長年間(一五九六~一六一四)には世帯数一六戸、人口七〇人となっていて、それから二百数十年後の明治三年に、新政府に報告した『村明細帳』には、次のように記されている。
水田 四十八町一反八畝二十三歩
畑 十四町一反三畝十歩
宅地 四町六反七畝歩
山林 四十五町二反七畝十九歩
芝地 七畝十一歩
埋葬地 三反八畝十九歩
弊馬捨場 三畝二九歩
官有山林 二畝二〇歩
官有芝地 五反九畝〇一歩
官有秣場 三町六反〇畝十五歩
官有溜井 一畝十二歩
寺院境内 三反〇畝十七歩
神社境内 六畝〇五歩
栗山川通堤 長サ百間 但高サ三尺 馬踏四尺 鋪壱丈
字砂子 板橋 長サ五間 横壱間弐尺
字松橋 板橋 長サ三間 横七尺
上農戸数 二十一軒人別一三九人
中農戸数 二十軒人別九十八人
下農戸数 九軒人別四十二人
農間渡世の者
一、酒造 二人
一、質屋 一人
一、大工 一人
一、桶工 二人
一、下駄工 一人
一、鍛冶工 一人
一、傘張替工 一人
一、菓子小売 一人
一、雑菓子小売 二人
一、酢醤油小売 一人
一、餅菓子 一人
一、古鉄渡世 一人
一、木挽工 一人
一、油小売 一人
一、水車渡世(差渡壱丈弐尺) 一人
すなわち、戸数五〇戸、人口二七九人となり、農間職種も一五種一八人となっている。
明治八年に、近接の坂・小高・方田の三カ村が合併を望み、「塙田村」として発足しようとしたことがあるが、そのときの願い書によると、次のような数字が見られる。
以書附奉願上候
元第五大区小十一区
下総国香取郡
一、反別四拾五町四反壱畝拾九歩 坂村
高三百八拾弐石六斗六升五合壱勺
戸数五拾三戸
人員二百八拾九人
一、反別弐拾三町七反壱畝壱歩 小高村
高百八拾三石四斗四升壱合
戸数三十三戸
人員百六拾九人
一、反別弐拾三町五反四畝拾七歩 方田村
高百七拾八石五斗弐升八合
戸数弐拾八戸
人員百五拾九人
合反別九拾弐町六反七畝七歩
高七百四拾四石六斗三升四合壱勺
戸数百拾四戸
人員六百拾七人
右三ケ村
塙田村ト改称
右者三ケ村小前惣代兼正副戸長一同奉申上候、私共村々之儀者其土地実際弁梩宜敷村費減少其地共見込ニ付、先般御説諭之趣茂有之一同衆儀仕候処、書面之通合併村名改称奉願上度、且ツ貢租筋之義者地券成功相成候迄一切従前通リ御据置被成下、小前末々迄評決一定仕候間 何卒出格之以御仁恤ヲ願意御採用成下度、依之絵図面弐葉添此段奉願上候 以上
右区
坂村農惣代斉藤慶蔵
副戸長細野善兵衛
戸長山崎茂衛門
小高村農惣代石井佐七
副戸長萩原又兵衛
戸長葉計要右衛門
方田村農惣代宇井忠兵衛
戸長石橋清左衛門
明治八年九月
この合併願いは、結局は不首尾に終ったのであるが、この年の坂村は総高が三百八十二石余で、戸数五三戸、人口二八九人とわずかながら増加している。
そして、昭和五十九年十一月末現在の当地区の規模は次のとおりである。
宅地 七町二反一畝歩
田 四五町二反九畝歩
畑 二四町九畝歩
山林 三九町三反一畝歩
原野 二反歩
その他 九反歩
計 一一七町二畝
世帯数 八三戸
人口 三四四人
内男一八三人女一六一人