大黒天のそばにあって「二十三夜月天王 天下泰平五穀成就 天保十五年甲辰(一八四四)十一月 如意珠日総邨中 本願主加勢平兵衛世話人山崎平作 及川半兵衛 鈴木薪八」と刻まれている。
本殿左側の大楠の下には、神名の部分が破損した小石宮が三基あって、次のように判読できた。「弘化四丁未歳(一八四七)九月大吉日加瀬氏平右衛門」「安永五申(一七七六)九月吉日及川五左衛門」「安永三午(一七七四)十二月二十五日 山氏」
この他に文政十二年(一八二九)と天保六年(一八三五)に奉納された石燈籠があるが、他の唐獅子、石造手洗いなどはいずれも明治・大正以降のものである。
石造鳥居は、明治三十九年に日露戦役の凱旋記念として建てたもので、礎石に、出征軍人一〇人、発起人二五人、賛成人三五人、氏子惣代三人の名が連記されている。
本殿裏の道沿いに、楠の老木に護られるように、太平洋戦争戦没者の忠魂碑があるが、これは昭和二十八年十一月に建てられたものである。
忠魂碑と並んでいるのが春翠(細野憲司)歌碑で、昭和二十九年九月に建てられたものである。表に「露志免里(しめり) ふかきがな可尓(かに)咲多連(たれ)て 秋能(の)小草の みなうつくし貴(き)」とあり、裏に神原克重筆になる略歴が記されている。
この略歴記に多少補筆して、春翠の人物を次に記してみる。
春翠は、村名主や戸長を勤めた細野善兵衛の三男として明治二十七年坂村に生まれ、憲司と名付けられた。
大正二年佐原中学校を卒業し、茨城県で代用教員を勤めた後、改めて千葉師範学校第二部に入学。同四年同校を卒業してからは、永治小学校をふり出しに教育者としての道を歩き、やがて昭和三年豊和小学校長となってから茂原・銚子・柏・津田沼の各小学校長を経て、昭和十八年には郷里の常磐小学校長となり正六位勲六等を授与されたが、昭和二十二年に現職のまま病没した。これが教育者としての公的な生涯である。
しかし、教育者としての業績もさることながら、細野春翠の名は、歌人若山牧水との師弟関係に端を発する文人としての活動によって知られている。
春翠と牧水との出会いは、いまにしてはその詳細を知ることはできないが、人生問題で悩んでいた青年春翠を慰め、牧水の主宰する「創作社」への加盟を勧めたのは師範学校同級生の水鳥川であったという。
牧水と春翠の親交を示すものに『牧水全集』に収録されている二七点の手紙がある。これは大正六年から十五年までの間に、牧水から春翠に宛てたもので、その内容は短歌指導ばかりでなく、人生指導にまで及んでいる。
また、春翠の影響も多分にあったとは思われるが、町内にも「創作社」同人がおり、この人達が大正十四年八月二十四日に高野前の「つた屋」で牧水夫妻を囲んでの会合を開いたとき、その席で書かれた牧水、喜志子夫人、春翠などの寄せ書きが、そのときの出席者の一人でもある喜多の大矢氏宅に保存されている。
特にその交遊を顕著に示すものは、銚子犬吠岬遊歩道の大岩に埋め込まれた牧水の歌碑であろう。その冒頭にこう記されている。
犬吠を詠んだ歌人の紹介
犬吠岬は昔から多くの文人歌人に心の故郷として親しまれてきた。中でも若山牧水は大正八年一月一日愛弟子細野春翠とこの地を訪れ、岬の先端にそびえる白亜の灯台に打ち寄せる太平洋の怒濤に歌心をそゝられて多くの歌を残している。(以下略)
春翠の歌人としての業績には、歌集『自然の息』の発刊があり、俳人としては、爪音と号して臼田亜浪の『石楠』渡辺水巴の「曲水」に多くの作品を発表している。