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妙解山妙行寺

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 字小中内六六〇番地の一にある。日蓮宗の寺院で、檀家は二七軒余である。同じく、『社寺明細帳』には、
 
   下総国香取郡坂村字小中内
               同郡東松崎村顕実寺末
                     日蓮宗 妙行寺
一、本尊 十界曼荼羅
一、由緒 当寺開山ヲ中道日秀ト曰フ文明十六年甲辰(一四八四)ヲ以テ寂ス其ノ後若干ノ星霜ヲ経歴シテ嘉永五年(一八五二)ニ至リ火災ニ罹リ堂宇焼失シ故ニ由緒無之 依テ本寺ノ記録ヲ尋ヌルニ 天文中(一五三二~五四)筆者日精ノ棟札並ニ元和九年(一六二三)ト棟札アリト記載アルノミ
一、本堂 間口三間三尺 奥行五間三尺
一、境内坪数 五百六拾四坪
一、境内仏堂 壱宇
  釈迦堂 間口弐間 奥行弐間三尺
  本尊 釈迦仏
  由緒 抑モ此ノ堂ハ開寺以来ノ造立有之者ナラン乎 当時ノ老輩ト雖モ縁由ヲ知ル者ナシ 只釈迦堂ト唱フルノミ 代々ノ住僧檀徒ノ余力ヲ請ヒ修繕ヲ加ヘ正ニ保存スト雖モ 近年ニ至リ村内ノ宗旨二脈ニ分離シ 遂ニ廃頽ノ萌芽ヲ生シ之カ破毀ニ趣ク事ヲ如何センヤ 然リト雖モ当寺ノ住職タル者該堂保護ノ任ヲ逞フセスンハアルヘカラス 扨此ノ堂ハ当寺火災ノ際ニ当リテ其難ヲ免ルナク由緒無之ニ付当時ノ現形ニ従テ略記致シ候
一、境内庵室無之
一、境外所有地
  耕地反別 壱反壱畝弐歩 坂村ノ内
  山林反別 無之
  宅地反別 無之
一、檀徒人員 八十六人
一、県庁迄距離拾三里拾四町四拾間五尺 以上
 
と記され、『常磐村郷土誌』には「文明十六年(一四八四)八月ノ創建ニシテ、僧日秀開基ス、往古真言宗ナリ」と記録されている。

妙解山妙行寺

 由緒の文中にもあるように、火災のため諸記録は失われ、その詳細を知ることはできないが、鈴木四郎兵衛家に伝えられている日譲の曼荼羅に「天保十年(一八三九)本堂再興」と記されている。
 本堂内には明和八年(一七七一)年号の徳川家将軍初代から三代までの位牌があり、境内の石燈籠には「奉献燈籠一基 報恩謝徳兼本如院日超菩提 高祖大菩薩為五百遠忌 功徳主鷲本院日悟起立 維時天明元辛丑(一七八一)九月」と刻まれ、題目碑には「日蓮大菩薩高宗五百遠忌宝塔也 施主妙解山檀中併郷中 安永十辛丑歳(一七八一)十月十三日廿世」とある。
 この妙行寺では、かつて宗教行事の一つとして、子供たちによる次のような習わしがあったという。それは、毎年旧暦四月八日の灌仏会に行われたもので、村内の五歳から十三歳くらいまでの童児が、親方と呼ぶ年長の男子を指揮者にして、前日の七日に次のような囃子言葉を叫びながら各家々を回り、米や豆の喜捨を受ける。
 
  おしゃかの米取米かんじん、あづきかんじん、ぜにかんじん、アトからチョッポがみそかんじん。
 
 集めた米や小豆や金銭を寺に持ち帰ると、母親達が赤飯や甘茶を作り、別に家々から持ち寄った手料理も合わせて、母子が一しょに住職の法話を聞きながら一夜を過ごすのである。
 明けて当日は、多勢の参詣人には昨日集めた豆で作った煎豆が売り出され、子供達は、釈迦像を乗せた輿を紙細工で飾り付ける作業をして昼食がすむと、住職を先頭に輿をかついで行列を組み、寺から砂子橋へと進む。ここで輿の周囲を飾った紙細工に火が付けられ、炎に包まれた輿が激しくもまれると、火の付いた紙飾りは次々と振い落とされていく。そして最後に、炎によって浄められた釈迦像がその尊像を現わし、やがてこの像が寺に帰ってこの行事は終わる。
 ここで、当集落の仏教についてふり返ってみると、少数の新しい教義のものを除いて、そのほとんどが日蓮宗である。宗祖日蓮が弘安五年(一二八二)池上本門寺に入寂の後、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六人の高弟が身延山に久遠寺を建て、天文の法難その他の苦難を乗り越えて広く布教された日蓮宗は、その間、本迹一致派、本迹勝劣派に分かれ、後に宗派内の分立もあったが、明治九年に本迹一致派は日蓮宗と総称することになり、総本山を身延山久遠寺とし、四大本山を池上本門寺・京都妙顕寺・本圀寺・中山法華経寺と定めた。
 このことから、妙行寺は本迹一致派から出た日高の教えを奉ずる中山法華経寺の門流であり、妙高寺は、同じ本迹一致派から出た日輪の教義を信奉する池上本門寺の分脈といえる。
 また、他に二二軒ほどの不受不施派がある。これも日蓮を始祖とする日蓮宗の一派であることはいうまでもなく、多古周辺には多くの信者があり、妙行・妙高の両寺もこれに同調した時代もあったが、厳しい弾圧を受けて転向したという。
 現在当集落にこの派の寺院はなく、二二軒の檀徒たちは、南玉造の竜華寺をその菩提寺としている。