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平台墓地

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 ガケラントウ墓地とは対象的に、丘陵先端に位置した明るいところで、字蔵王からこの地へ移したものといわれている。
 大小の古墳状の塚が無数にあって、不受不施派が弾圧されたとき、同派の墓石を埋めて塚状に盛り土したものであるともいわれ、また、近年になって塚を築いたものもある。その塚の一つに自然形の石柱が建てられていて、「千人塚 昭和二十二年十月 鈴木幸四郎建之」と刻まれている。
 これらの塚の上には、石塔が建てられているが、そのうちの元禄十六年(一七〇三)の題目碑はほぼ完全な形で残り、「奉唱満題目一千部成弁 元禄十六癸未十月十三日 自法界合識 同行十余人 下総国坂村 及川儀右衛門 細野庄二郎 越川長兵衛 鈴木志兵衛 高山長五郎 斉藤喜兵衛 及川半七 富山与八郎 白鳥半兵衛 高澤甚之亟 鈴木甚五郎 高山三十郎 山崎孫八郎 山崎宗貞 佐原静詠」と刻まれてあり、断片のものに「題目首題一万部 元文三年(一七三八)」「元文五庚申天(一七四〇)」などと読み取れるものがあった。
 この墓地の西側にある道路が東松崎との境界となっているが、道沿いにある塚は、寛文の頃、内山村との境界争いに勝訴した坂村に対して、怖れをなした東松崎の村人達が、一夜にして塚を築いたものであるという。
 なお、同地近辺の畑から土器片が出土することもあるということである。