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村の起こり

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 村の始まりについての明確な資料はない。宮本の松崎家文書に、内山村の枝村であることが記録されていることは既述のとおりであり、村の伝承としてもそのことが伝えられている。
 村の生成について古文書資料によってたずねてみると、平山所左衛門家の親戚に『平山氏系図抜書』と題した文書が伝えられてあり、それには次のように記されていた。
 
   山田ハ在名也庶子之総領也
 寛正六丙午八月朔日(乙酉一四六五)葛原親王第二之王子者平山之祖也 信州従諏訪大明神平山之総領源六郎方江相伝在判一品式部卿葛原親王者諏訪大明神之本地也 御宝殿ヨリ白張召タル人出現有 平山者諸侍之武者所也ト云云 如斯四五反被仰忽ニ失給ト云云 然ルニ平山ハ曰天子之御子也其故ハ曰天子須弥 出之時不思儀之瑞相有テ誕生シ玉フ故也 去程ニ須弥ハ南閻浮提青キ故ニ其レヲ象リ平山之幕之地色ハ青ク紋ハ鷹之羽二羽宛五所ニ十羽也 一番ハ三河二番ハ越前三番ハ伊賀兄弟三人也 庶子ハ二十羽或ハ廿五羽也 一番ハ小宮二番ハ新井三ハ立河四ハ平林五番ハ伊南始ノ三人ヲ添テ以上八人也 殊ニ庶子ハ幕之布地ヲ白シテ鷹ノ羽ノ下羽ヲ廿五羽付也 氏者日之奉氏也依之平山ヲ武蔵国日之原ト云所ニ被為 也 此子細者日本二番之国也授領モ二番也
一、平山之幕ノ紋庶子エ免ニハ五百貫之領ヲ以総領エ遣江日本之諸神書記可及請文ニ 万事有口伝能々可思案者也
 
     平山先祖末葉之事
 上総国坂田之城主
 猪田弾正殿エ奉公仕 平山主水左衛尉有光 五十才ニテ病死   法号名法乗院日保
 下総国多胡城主
 牛尾能登守殿エ奉公仕 平山若狭守有次 四十才ニテ病死   法名号妙法院日結
 上州厩橋之城主      若狭守嫡子
 酒井日向守殿エ奉公仕 平山新右衛門尉有慶 老年窂人シテ下総国水戸村ニ居テ病死   法名号了法院日恒
 新右衛門同次男 平山七郎右衛門
 同三男 平山庄右衛門
 方田村平山庄右衛門嫡子 平山所左衛門 号正光院妙法 卯正月十九日病死(以下略)
 
 さらに、法光寺の『過去帳』の一部にはこう記されている。
 
 「当山建立寛正四年癸亥(一四六三癸未)十一月六日 同二年八月川島妙蔵寺ニテ開祖 当山歴代開祖妙法院日乗聖人 二世日由(以下略)」
 
 ここで、前記二点の文書に横芝町史と多古平山家系を対比しながら、平山庄右衛門が方田へ土着するまでの経過をたどってみると、
 寛正六丙午八月朔日(一四六五乙酉)に地方役人の一人として武蔵国日之原へ信濃国から着任した。
 弘治(一五五五―一五五七)の頃平山主水左衛尉有光は、上総国坂田城主井田家に仕え五十歳で病死。
 天正(一五七三―一五八五)の頃平山若狭守有次は、多古城主牛尾家の家臣となったが四十歳で病死。
 慶長(一五九六―一六一四)の初めには平山新右衛門有慶が上野国厩橋城主酒井家に仕えるが、やがて年老いて浪人となり、下総国水戸村に帰農し、次男七郎右衛門が多古村へ、三男庄右衛門が方田村へと分家したことのようである。
 この地周辺に人々が住み着いたのはもっと早い時代であることは、字塚先平台に見られる古墳によって十分に立証されることであるが、古墳時代の人達と現在の人々との関係は不分明である。