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寺内の石塔・石碑

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 山門左手に三十番神の小堂がある。法華経を守護する三十の神々を祀るものであるが、堂内には厨子に入った一尊が安置されている。
 堂の前に二基の板碑があり、「南無妙見大菩薩 智婆神龍姫霊 明治二十九年丙申五月十五日建之 功宇井忠兵衛」「二十三夜大月天王奉誦久遠偈四万巻成就 奉誦久遠偈十万巻成就 甚左衛門 和吉 与兵衛 忠兵衛 天保九年戊戌(一八三八)四月造旃 明治二十六年癸巳五月再建之 佐兵衛 清左衛門 平左衛門」、そして台石に「宇井久兵衛 伊藤佐吉 石橋貞治郎 平山三左衛門 宇井宗三郎 越川作二郎 平山清蔵 平山治平衛     石橋清左衛門     石橋儀右衛門 宇井国太郎 平山金蔵 平山市太郎 越川重兵衛 石橋清三郎」とそれぞれ刻まれている。
 山門前左手には文政十二年(一八二九)造立の題目塔があり、その左側にある宝篋印塔は寛文七年(一六六七)のものである。
 山門をくぐった右手には、明治十九年に建てられた薬師如来の碑がある。
 これらに並んで歴代住職の墓石があるが、一きわ大きい石塔に「大正九年三月二十二日没 瑞法院殿日栄大法尼宗祖百五十年御遠忌記念トシテ恩師之碑延命山第四十一嗣法子観貞日誠建之 維時昭和五年十月忌辰会之砌 日誠越川重兵衛長女也『ありがたや仏の道に法燈の光さやけく永く輝け』(日誠辞世)」と刻まれている。これは当山四十一世渋谷観貞尼が師の供養のために建てたものである。
 観貞尼は、明治二十年に村内の越川重兵衛家に生まれて「つぢ」と名付けられ、のち北中渋谷櫂太郎に嫁いだが、日露戦争に出征した夫が戦死したことから、その菩提を弔うために髪を落して、日蓮宗の門跡寺で京都市村雲の地にあった(現在は滋賀県近江八幡市)瑞龍寺に入り、法主伏見宮貞愛親王の王女日栄尼のもとで修業を重ね、ついには生地の法光寺住職となった人である。