墓地は法光寺から約五〇〇メートルほど離れた字アラク二二九番地の一にある。川島に向う道筋で、ここから宮本・山倉へ通ずる近道が分かれている。
この辺は近隣に名高い難所で、今でこそ畑の中の明るい霊園であるが、古くは山林に囲まれ昼なお暗い墓地であった。
つる草が頭上を覆うほの暗い道を通り抜けると、田の中間を流れる川に架けられた一本の丸木橋のところに出る。たまたま夜道になった人達が、木の間陰れに見え隠れする新墓の白張提燈を化物と見違え、恐れ急ぐあまりに、度々川に落ちたという。
こうした話がいくつかの怪談となって、幅約一メートルの木橋に架け替えられた大正時代まで続いたということである。
立ち並ぶ石塔には、元禄時代(一六八八~)からのものも多く見られ、もと焼き場の一隅にある同寺開山日乗聖人の供養塔には、「南無妙法蓮華経日蓮大士 奉唱首題一千余部 延命山開基日乗聖人 寛正四年未(一四六三)十一月六日 天明元辛丑(一七八一)十月十三日建立 惣施主那須儀左衛門 越川重兵衛 当村講中」と刻まれている。
またここには、方田の集落にとって忘れることのできない、文化九年(一八一二)正月二十八日の大火災によって死んだ二人の幼女の墓があり、「妙法妙空嬰女」「妙法妙岸嬰女」とそれぞれに刻まれている。
その大火災について、語り継がれる古老の談話を採録すると、「村の中央あたりから出た火は、折からの寒風に煽られ、冬の乾ききった建物に次々と燃えひろがり、村の人達がかけつけた時は、とても手に負えない火勢になっていた。猛威をふるう火の中に肉身を呼ぶ声、救いを求める声、それはまさに地獄絵そのものである。
その時逃げまどう多くの人達の混乱の中で、たまたま出会った二人の少女があった。家が隣り同士で、ふだんから遊び仲間であった二人は、互いに手をとりあって村のお寺の庭に逃げ込んだが、ここにもたちまち火の手が迫って来たので、火の粉を除けて本堂の縁の下に身を隠した。しかしその炎は二人を抱いたままの伽藍に燃えうつり、ついに本堂も崩れ落ちてしまった。
地獄のようなひと夜が明け、寺の焼跡から二人の無残な焼死体が探し出された。身元も見分けられないありさまであったが、二人の母親達は、焼けただれた遺骸にわずかに残った着物の縞が、自分で織って子供に着せた縞柄であると見分け、涙ながらに引取っていった」ということである。