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教育文化・人物など

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 当集落内で、子弟に一般的な教育が行われ始めたのは、文久元年(一八六一)頃からであるといわれる。
 宇井佐兵衛が自宅を教場にして、一〇人前後の子供を預って読み書きを教え、それは明治八年頃まで続いたようで、門人からは後の常磐村長が三人もいたということである。
 この佐兵衛は俳人でもあり、五柳亭潮光と号して『明治俳諧五百題選』に、長子平吉(俳号宇晴)とともに次の句が載せられている。
 
  白雲の案内ぶりや雪の中                  潮光
  近ほしに雲のゆるみや帰り花                潮光
  明月や行かずも月のありながら               宇晴
 
 一方政府から学校令が発布されると、飯高・片子・大堀・金原・安久山・小高・方田・内山の八カ村は、共同して明治七年五月十日学校設立を新治県庁に請願し、同年八月五日認可となり、九月十日には飯高村字柏崎一〇七七番地で開校された。そして方田村の子弟は同十四年までこの小学校に通学していたことが、『飯高小学校沿革誌』に記載されている。
 次に、多少異質ではあるが幕末における隠れた功労者で、郷土の名を品川砲台に知らしめた人物の一人を、『常磐村郷土誌』から抜粋して紹介しよう。
 
 石橋清左衛門
 文化元年(一八〇四)生。資性活達ニシテ気骨人ヲ凌クノ風アリ。夙ニ力ヲ産業ニ致シ、地方農家ノ発展ヲ企図セラル。嘉永六年(一八五三)米艦浦賀ニ来航スルヤ、幕府品川沖ニ砲台ヲ建設セントス。氏命ヲ承ケテ工ニ従ヒ大ニ勉ム。工半ニシテ悪疫四方ニ蔓延シ、役夫多ク之ニ死ス。氏新ニ役夫数百ヲ郷土ニ募リ、尽ス所アリテ工将ニ成ラントスルノトキ病ヲ得テ家ニ帰ル。安政三年(一八五六)病革リテ没ス。