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村の古文書

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 唐傘証文
 これは署名印の配列が放射状で、唐傘に似ているところからそう呼ばれていて、均等の責任を分担することと、中心人物が誰であるかを明らかにしないことのために作成されるもので、珍しい文書形式である。
 文の内容は、村役人の不正・不当を、小前百姓(一般農民)が告発したもので、本文は「凶作のために扶喰米にも困っている百姓に対して村役人は、半分は金納でよいと聞かされているにもかかわらず、米による納租を強要し、救援金としてお上(かみ)から三十四人分の十両二分余をいただきながら、その一部を着服するなど、我欲に流れることが多いので、このようなことを改めると共に、いわれなき訴えごとなども止めるべきである。そして、これらの者たちを村役人に取立てることなく、村中が平穏におさめるようにとりはからっていただきたい」ということを、当時の所轄庁であった宮谷県に、小前百姓一同として提出したものである。次がその議定書と証文である。
 
     議定一札之事
一 此度村方伍什長組立其外種々差縺候一儀有之候ニ付、左之者共一同相談之上議定取極申候、然ル上ハ若違変致シ候者有之ニ於而者、諸懸吃度相心得差出シ可申候、為後日議定一札依而如件
   明治二年巳八月 日

傘証文

 集落内の全戸が農家であることもあって、当然のことながら、古い時代から農業施設の整備に力を注いで来た。曲折して水田地帯を縦断していた土仏川の氾濫に備えて、次のような一文が残されている。
 
    新堤築立に付取極証書
 字塚先にて
一 新堤 長弐拾八間幅五尺 宇井忠兵衛新築
 右堤之内
一 田七 五歩 越川重兵衛所持之内埋地此間の換地
 川島村之内字ケエ妙
一 田拾五歩
 方田村の内コヂヤ
一 山地壱畝拾歩
 〆二筆宇井忠兵衛より越川重兵衛ニ相渡ス
 右者 双方無申分熟談の上地所検易致シ、新堤築立候上者至後日何処モ右事件ニ付御苦情御座無候 依為後日立会人他一同連署為取極候処如件
   明治十三年三月十一日
                                       越川重兵衛
                                    立会人伊藤佐吉
                                    〃  石橋清三郎
  宇井忠兵衛殿
 
 なお、造られた時代は不明であるが、旱害に備えての用水池が三カ所あって、字広町にあった五畝ほどの沼は水量も豊で青々とした水をたたえていたが、何ゆえか神秘の沼といわれ、子供達も近づかなかったという。
 また五十部堰と呼ばれた三畝程の沼が字関場にあったが、ここは川魚が多く棲んで釣場にもなり、村人の憩の場であったという。
 もう一つは川向うの沼と呼ばれた方形の沼であったといわれるが、今はそのすべてが水田となり、その場所さえ知る人は少ない。