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神域の小宮・石碑

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 境内右手北側の谷から清水が湧き出して、御手洗いの池となり、この下方の入り谷にある水田を「宮田」と称している。
 境内神として石宮が四基あり、三基には神名の刻字は無いが、一基には「寛政元己酉(一七八九)五月朔日 世話人鈴木七郎左衛門」とあり、「龍田明神 広瀬明神」と二神の名が刻まれている。
 龍田明神は、奈良県三郷町に本社のある風の神、広瀬明神は奈良県河合村に本社のある雨の神で、両社ともに農耕の神である。
 奉献物として石造の手洗いがあり、それには「奉献 文政六歳在癸未(一八二三)春正月 願主宿曲輪 勝俊民書〓〓氏」と刻まれ、石燈籠は二対の他に火袋のないものもあり、それぞれ次のように刻まれている。「神霊御宝前 大願成就処 皇道遐昌武運長久 久松氏三家武門栄昌天明七次丁未歳(一七八七)九月上旬六日 惣村中」「奉納御宝前 明和七庚寅年(一七七〇)秋山五郎兵衛 佐藤佐吉 秋山利介同弁次」
 このほかに、明治三十八年と大正八年に建てた板碑が二基ある。
 同社の東方約五〇〇メートルに旧参道があり、ここから内野を経て柏熊に通ずる丁字路の土堤上に、二メートル余の角石塔と一メートルほどの小石柱がある。字京松二〇五〇番の地で、字出張(ではり)に接している。
 この小型石柱に次の刻字がある。「南無妙法蓮華経二十三夜大月天子  座空諸天為聴法故亦常随侍 天下泰平五穀豊饒郷中安全 維時天保十一龍舎庚子(一八四〇)正月念三日 当所構中造立 」これは神社への案内標を兼ねたものでもあり、この地方に古くから信仰されている「お三夜講」講中の記念碑である。そして大型の石塔には「椿神社従是西三丁余 南中村多古道 北栗源佐原道 大正七年一月五日奉納人宇井清助建之」と刻まれている。
 参道を登った左崖上にある高さ二・五メートル、幅四五センチの大石柱は、同社をめぐる物語と深いかかわりをもつものである。
 玉作城主であった野平伊賀守の娘佐良姫と、家老の長子富澤内蔵助光佐が結ばれて土着したといわれ、孫信道の長女に女婿として松崎郷・並木武右衛門の二男弥右衛門宗安を迎えて分家。そして宗運・信清・清久・茂嘉と続くことは既述のとおりである。
 茂嘉は、寛政中(一七八九~一八〇〇)家を長子賀佐に譲って筑前福岡藩主黒田家の江戸屋敷に勤めた。このとき、黒田家は実子に恵まれず不運が続いていた。藩主黒田筑前守継高の嫡子重政は自分の子に先立たれ、次いで宝暦十二年(一七六二)二十九歳で父より先に没した。世継ぎを失った黒田家は、九代将軍徳川家重の三男、徳川刑部卿(一橋権中納言)宗尹の五男治之を養子に迎えた。
 安永四年(一七七五)六月に黒田継高は七十六歳で没し、続いて天明元年(一七八一)九月、養子の治之は三十歳のとき病のため危篤となった。
 ここに再び世継ぎの問題が起こり、急きょ同年十一月に讃岐(香川県)多度津一万石の城主京極出羽守高慶の七男治高を養子とし、治之の没(十一月)した翌同二年二月、治高は筑前守となって黒田家を継いで当主となった。しかし治高も子がないまま、同年十月、二十歳で死亡した。治高は死に臨んで、養父治之の実家で徳川家三卿の一家である一橋中納言治済の二男斉隆を養子とし、その遺領は同年十二月からわずか六歳の斉隆に引き継がれた。
 このように、三代余も続く世継ぎ問題に苦悩した黒田家は、新藩主斉隆がつねに病弱であることもあって、次の嗣子誕生については神仏の加護をいっそう求めたい心境になるのも当然のことといえよう。
 その頃、富澤茂嘉は家臣として祐筆を勤めていたが、郷里南玉造村の椿大明神に伝わる「子安さま」として知られる霊験あらたかな前記の話を披露したところ、直ちに祈願の使者が発ち、断食祈願を行った。その結果霊験まさにあらたかというべきか、寛政七年(一七九五)に嫡子長順の出生がみられたのである。
 しかしこの喜びも束の間、父斉隆はこの年の八月に十九歳の若さで没したため、同十月六日に当歳の長順が四十七万三千百石の藩主となり、かろうじて家系を保持することができたのである。
 斉隆の喪の明けた寛政九年(一七九七)、長順誕生の御利益御礼と、その無事成長を祈って石塔が奉納され、右側面にそのいきさつが長文の漢文で刻まれているが、判読は困難である。
 幅四五センチほどの碑面の表には「子安除厄椿大明神 自此西三町余」と大書され、側面には、「寛政九年丁巳正月 筑前永田庄右衛門源正勝 永田平之丞源有恭謹書 発起下総州香取郡南玉造郷 野富民蔵茂嘉 男富沢半平賀佐敬白 江戸桜田保町石屋喜平謹鐫」と見える。
 ここに茂嘉の姓が「野富」となっているのは、野平氏と富澤氏の両家の頭字を用いて「野富」を名乗った一時期があり、やがて富澤に戻ったが、そのときのものと思われる。
 当神社の例祭は一月五日で、そのときの行事として「うちいた」と称する神事が今も続いている。神前に戸板を列べ、大根・人参・牛蒡(ごぼう)を竹串にさし、塗りつけた唐辛子味噌が浸みこむまで焼いたものを肴とし、郷土の祝い歌「だいこだね」が一ぷく(廻)終るごとに椀(わん)の酒を一気に呑み干し、音を立て戸板上に椀を伏せる。「打ち板」は三回続け、終回には参膳者の盃が完全に飲み干されることが約束ごとになっている。
 この祝い歌「だいこだね」は目出度いときに歌われるものであるが、それとは別に当地に歌われて来た民謡に『椿大神御利生記』があり、前記茂嘉が黒田家世継ぎの件で功をなしたことを歌い込んだものが伝わっている。
 いきさつについての内容に多少の違いはあるが、興味のある物語でもあるので、次に記しておきたい。
 
      椿大神 御利生(りしょう)記
人のそれこの世に 一ばん大事は 子宝なるぞよ 百万長者も 子がないときには 鴛鴦(おしどり)の衾(ふすま)も つひ冷やかにて 竹の柱の 草屋の中でも 子には笑いの 春さわめきてヨ 家の繁盛も み国の栄えも もつべきものはナ 子宝なれとも 縁のむすびと授けの神はナ 人のまた力で どうにもならない 花のお江戸は かすみが関にて 音に聞えし 黒田の大守は 五十二万石 世にときめきてヨ 栄耀栄華も 尽きせぬけれども ものに不足は 浮世の習いヨ み台様には つい子が無くてヨ み代を継ぐべき 若様ばかりか おん姫さまさえ お産の癖とて お流れなさるる 天下のおきては 世つぎがなければ お家は御缺所(ごけっしょ) 明けても暮れても 其のおん歎きは 余所の見る目も おん痛ましさヨ そこで家中の 大評定には いよいよご養子と 本意なきことにも 今やならむと するおりからにヨ 奥の御祐筆 富澤茂嘉 席をすすめて 申するようはナ 皆のおことば 御道理なれども 殿もみ台も おん若ざかりに 宿りしおん子の お育ちないのは 何かさわりか 魔道の仕業か それがし故郷ハ 下総の国にて 遠きむかしは 三井寺御領の 由緒もふかき 山ざとなれども 名も玉つくりに
 (囃し)たまにかよえば別れがつらい
    たえずかよえば愚痴がでる
鎮(しづ)まりたまえる 椿のみ神は 子安(こやす)の神とて 世にも名高く お産も安らか 子もすこやかにと そだつ利益も あらたかなりとて 近郷近在 朝な夕なの 参けい絶えせず もしもそれがし 仰せを受けなば お家のおんため 此の身にかえても 代参しましょと 申しあぐれば 並いる家中も 太守もその儀を お許したまいて 頃は寛政 巳の神無月に 春にはあらねど花の都を かすみが関をば はるばるたちいで おもき役目と 富士の威光を かさに着て行く 故郷の旅路よ あはれ世の中 もののふのみ上ほど つらきはあるまい 神のねがいの 御利益なければ 殿のおんまえ 家中の手前も 生きては帰れぬ こころのくるしさ 一心こめたる 祈願のほどこそ 恐ろしものだヨ 七日七夜の 参籠すませて 江戸にと帰れば さても不思議や 大奥様には その月頃より 身重になられて やがて月満ち お産もやすやす 生まれいでしは たまのようなる おん若様にて むしの気もなく すくすくそだてば 殿をはじめに 家中のよろこび 俄かに春めく かすみのお屋敷 世々にさかえて お家は万才 万々才とて お礼の参りに 門標刻みて たてしいさおを 千代に八千代に 椿の大神
  (囃し)椿油は乙女の髪に
     椿大神 子安神
御利生いや高 江戸にとどろき 田舎にひびきて 毎年いちどの 奉納 御神楽 獅子に手踊り 揃うた揃たヨ みなよく揃たヨ