ビューア該当ページ

円教山得城寺址(玉造城址)

1035 ~ 1037 / 1069ページ
 字南台一三四九番の二。南方の地続きは南台、西方は堀跡から志代地に連り、東北側は水田に面している。深い空堀があり、要害、堀井などの地名が今も残っていて、東西それぞれの中腹に湧水池がある。詳しい文献はないが、応安の頃(一三六八~七一)には野平伊賀守常言、文明(一四七二~八六)の頃には同伊賀守常清がここにいたといわれている。
 天正十六年(一五八八)に同伊賀守常義は僧籍に入って開城、古小玉的場の庵に入った。この石御堂が得城院と号した得城寺の前身で、平賀本土寺九代であった妙光日意が、初めて庵を結んだところという。
 蓮華寺に遺る日意の曼荼羅には「玉造之内 的場之御堂本尊也 応仁二年戊子(一四六八)十月一日」と記されている。その後日進のときに古小玉から玉作城址に移り、得城院から円教山得城寺と改めた。
 明治十二年三月二十三日火災に遭い焼失したまま、廿五世真章院日憲を最後として長崎県上浦村(現長崎市上浦町)に寺籍が移り、過去帳および他の什物と檀家の一部は蓮華寺に移された。
 この檀家は不受不施の内信が多く、禁制時代に得城寺書院は、その隠れ庵としてひそかに内信活動を続けていた。
 寺跡には歴代住職のほか多くの墓碑が残されており、城址を伝えようとする断碑が半壊のまま残り、その傍らに一基の板碑があって、次のように刻まれている。
 
 南無妙法蓮華経 得城院日進上人 北総香取郡常磐村南玉造故得城寺者 元和元年(一六一五)日進上人之開基而本山芸州広島国前寺之末寺矣 偶明治十二年三月二十三日堂宇焼儘 弥来荏〓逸再建之時機遂臻於移転寺 于長崎県西彼杵郡上浦村焉之是時明治四十二年八月也 乃檀家之面々為報恩謝得起塔者也 明治四十二年十二月三日青巖秋山春謹書 建設者南玉造区石橋重次郎 伊藤伊之助 秋山政五郎 石橋留次郎 秋山菊松 石井政五郎 伊藤茂吉 山口長八 鈴木亀次郎
 
 寺跡から空堀をへだてた東側の台地上に八幡宮が祀ってある。城主野平伊賀守の守護神であったと伝えられているが、現在は野平家の氏神となっている。木造と石の小祀である。