字志代地一三三六番地にある。南玉造城址の北側にあり、通称要害の坂から参道が続いている。
明治の寺院台帳の記録によると、
千葉県管下下総国香取郡常磐村南玉造字志代地
法華経寺末 日蓮宗 妙頂寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 真言宗ノ僧之日慶代之応安年中(一三六八~七四)本寺法華経寺三代目先師日祐弘通ノ節 教ニ依テ宗旨及ビ寺号改称
創立、慶応三卯(一八六七)三月八日自火ニテ本堂庫裡焼失、明治元戊辰年再興
一、本堂間数 間口五間 奥行三間
一、境内坪数 四百七十九坪
一、檀徒人員 百十八人(以下略)
火災のため、史実を知る文書はないが、過去帳の一節に「当山開基嘉慶元年(一三八七)五月浄心院日慶上人」とあり、本堂の「ざる鐘」には「鏑木山正賢寺」の刻名が見られる。
境内入口の右側にある石塔には「南無妙法蓮華経 文化十二亥乙年(一八一五)霜月祥日 常慶山妙頂寺」と刻まれている。同じく左手に「常磐実農会」の記念碑が建っている。この実農会は大原幽学の性学思想を実践した集まりで、広沼の篤農家志波兵左衛門の指導を受け技術指導のみならず、品評会、協同販売と協同購入など、明治から昭和初頭に至るまで活動した。記念碑の建立は昭和八年である。
また同寺境内の東南の場所は、明治十七年十月に玉造小学校が工費五〇〇円で新築されたところでもあり、常磐尋常高等小学校が明治三十四年に設立されて、同三十七年に川島区芝原に新築移転するまで村の教育、産業の中心地であった。青年報徳会も図書を集めてここに読書の場を作り、広い文化活動の中核となっていた。
参道入口の左の板碑は、地元志代地御備社講が神酒を供えて祀る「大古久天(大黒天)」である。「具一切功徳 慈眼視衆生 南無妙法蓮華経 大古久天神 福聚海無量是故応頂禮 海蓮目大 嘉永五壬子(一八五二)五月甲子講中 造立之」
この講中の神事は笛太鼓の囃子で賑やかな行事であったという。