妙法山正岳寺
明治の『寺院台帳記録』によると、
千葉県管下下総国香取郡常磐村南玉造字柏熊
本寺 法華経寺末 日蓮宗 正岳寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 本寺ハ元同国同郡大堀村賢徳寺九世住職日淳、寛永元年(一六二四)八月十三日同村ヘ一宇草創 四世住職日道代元禄
十三年(一七〇〇)二月十八日右寺ヲ当村ヘ移転
一、本堂間数 間口七間 奥行五間
一、境内坪数 六百三十五坪
一、檀徒人員 百四十人
このように記され、さらに由緒については天保年間に差出した『正岳寺由緒』によると、次のようである。
乍恐御尋ニ附奉申上候
一、御領分南玉造村柏熊新田正岳寺由緒
今般御尋ニ付過去帳棟札之写ヲ以申上候 当寺建立之意趣者御領主松平豊前守様以御肝煎 同領内大堀村ニ有之法性山正岳寺今南玉造村之内柏熊新田寺院依無之 引寺被御仰付中山正中山法花経寺直末ニ相成候
元禄十三年辰正月九日日遺ト申僧入院仕候 雖然此所山野ニテ有之故 御領主以捨御威光御領国之諸人足立合 時之御奉行有井氏同月廿一日より当地江御出、多古御代官星野平左衛門殿御家老服部与五左衛門殿より被申附御出其節田畑山林当村之鎮守大六天之林 当寺之支配ニ被相定候
一、御領主様より御寄附田地壱町三畝余但シ三人扶持名目ニテ拝領仕候地所ニ御座候
一、両尊打鋪幡一流 服部与五左衛門殿
一、打鳴一口 有井定兵衛殿
一、三具足 星野平左衛門殿
一、鬼子母神高祖大士 大堀村より持参
此時永代不朽為資助金三両以積利分伽藍致相続様 服部氏より御寄附有之候事難有仕合ニ御座候 右御家老高橋勘作殿御佐勤之節御尋ニ付申上候
天保五午(一八三四)五月申上候
旦方総代組頭
差上申一札之事
一、正岳寺無住ニ付当分之内諸什物者散在無之様 猶又火元大切ニ寺内惣躰念入取締リ可仕候段被仰渡奉畏候 依之御受
一札如件
天保十二丑年(一八四一)正月日 旦方総代 金兵衛
善兵衛
御触頭御役僧中
現在の建物は後年に改築されたもので、山門だけが往時の面影を伝えている。
境内の右側に題目塔が二基あり、それぞれ「南無妙法蓮華経 到清院凉池信士 文化三丙寅年(一八〇六)五月廿一日、嘉永二己酉年(一八四九)七月十二日当山廿三世日就代法性山」「南無妙法蓮華経 当山廿一世 亮星日遂 法性山」と刻まれている。同地左側には昭和五十二年に建設された第二次世界大戦の忠魂碑があり、戦死者および従軍者の氏名が刻まれている。
山門正面奥に「宗吾様」が祀られているが、これは山倉村との土地問題の訴訟に当って、公津村の義民木内宗吾の霊に祈願して勝訴となり、その報恩のため、明治十四年に並木栗水の撰文ならびに書になる供養塔を建立したものである。
右手にある題目塔は日蓮五百遠忌のもので、安永八年(一七七九)に建立されている。そして刻字は、「在己亥宗門発軫日百拝立之 施主檀越現安後善 正岳寺不軽院日宏(花押) 金壱両惣檀中 金百疋女講中 同利右衛門同平兵衛 銀一斤金右衛門 金百疋金左衛門同 銅 市右衛門 金百疋弥 衛門 同吉兵衛 同惣左衛門 同七右衛門」となっている。
この題目塔と並んで、当寺の大檀越でもある服部与五左衛門の供養塔があり、「普政院古信日慧居士 享保六辛丑歳(一七二一)七月十日卒 下ノ総州南玉造村新田開発之本願主当寺中興大檀越服部与五左衛門之墓 為本村役人柏熊新田中右服部氏報恩 寛政四歳在壬子(一七九二)十月令造立之者也 法性山正岳寺十五世珠妙院日義(花押)男女講中」とある。これと並ぶもう一基の題目塔は、文化十年(一八一三)に十八世日顕のときに建てられたものである。
服部与五左衛門供養塔
奥の墓地中央には、当山の歴代を記した碑があり、「当院開山日淳大徳 慶長二丁酉(一五九七)五月七日 二祖正行院日念覚位 正徳五乙未(一七一五)七月五日 中興了岸院日遺覚位 正徳二壬辰(一七一二)十一月廿四日 施主 当寺三世日昌 弟子 享保九甲辰天(一七二四)霜月二十四日」と刻まれている。