玉造一円に六カ所もあったといわれ、その一つは字内野二一六八番の石井家屋敷内であるが、裏山の奥から壕を経て森の中の庵に通じていて、その小径は外部からうかがうことができなかったという。
不受派の僧がひそかに隠れ住み、また往来して内信者とともに法燈を守り続けたこの庵は、同派公許の後も大正年間まで残されていたし、石井家の隠し仏壇も先々代まで使われていた。
この「隠し仏壇」は、不受派と受派の仏壇を背中合わせにしたもので、表(おもて)仏壇は正面座敷に派手に飾ってあるが、不受派内信者は、その裏面にあって納戸に隠された自派の仏壇に小型の曼荼羅を掛け、表仏壇より先に供え物をして拝んでいたといわれ、死者の臨終経に当って使われた枕「開けずの箱」には、檀林僧の引導文など不受派の秘物が隠されていたという。
隠れ庵のその二は得城寺書院である。当寺は表面上は受派で、村人に対する一般的な寺請(てらうけ)もしていたが、書院に不受派の仏書や曼荼羅を隠し、不受派としての行法は夜になって行ったという。
その三は坂中の裏山で、名主五郎右衛門の裏山である。
その四は小玉庵で字小玉にある。庵の秘蔵していた箱に日蓮筆になる曼荼羅(宗宝)過去帳(玉造法難者の氏名記入あり)などが現存している。
その五は金原庵である。玉造墓地東南約一キロの山林中で、六万部塚、円明谷(えんめいざく)も近く、金原新田熊切家が守っていた。不受派法難者の過去帳が現存し、山中には不受僧の墓石が埋め残されているという。
その六は富澤義昌宅跡で、周囲は山林で人家から難れている。母屋奥の間の書斎を使ったといわれる。