字内野二一八七番地にある。墓域中央には古墳状の高さ四メートルほどの塚があり、四基の石碑が建てられている。
その一基は玉造檀林五世能化(蓮華寺廿世)明静院日浣の碑であるが、後記日誉の建立によるもので、「南無妙法蓮華経明静院日浣聖人 延宝四丙辰年(一六七六)七月九日 庚申天日饒敬改 逆立主 安立正国院日誉 」と刻字されている。
次の一基は慈善院日賢(刈毛実相寺に常葉檀林を開き佐倉昌柏寺の二世)のもので、「南無妙法蓮華経 日賢聖人 慈善院 元禄十丁丑年(一六九七)八月十二日化」とあり、次の一基には「南無妙法蓮華経奉漸読妙経一千部 日蓮大士五百遠忌御報恩 題 一千部 蓮光院日能口題八百卅部、天明元辛丑歳(一七八一)十月十三日 (削られた跡あり)」このように刻まれている。
次にあるのは、生前に自分の先師同信諸聖の墓を建てた(七十とも九十ともいわれる)安立正国院日誉の碑である。日誉は玉造の鈴木家出身で、常葉檀林(刈毛・実相寺)九世、佐倉昌柏寺三世を歴任した学僧で、碑文は次のように刻まれている。「南無妙法蓮華経 安立正国院日誉聖人位 開示悟入 伝之智見大 享保六年辛丑年(一七二一)十月二日化」