字京松台二〇七三番地にあり、「経松塚」ともいう。不受不施派僧の墓碑、供養塔が数多くあって小さな墳塚が幾つも起伏している。
その中で「カンメイロン様」と呼ばれているのは、玉造檀林開基長遠院日遵の墓碑である。
日遵は常に幕府の政策の誤りを諫め、俗権が宗法を支配することは許せないとして「諫迷論(かんめいろん)」を著した。その碑文は「諫迷論主 日遵聖人三百五十遠忌記念碑 昭和十四年初終 南玉造信徒中」このように刻まれている。
これに対する石塔が一対あり、「于旹明和元年甲申(一七六四)八月吉日 施主道清」とある。
次の塚には三基の石塔があって、それぞれ「妙法南無日蓮大菩薩 南無日朗菩薩 南無日像菩薩」「妙法日述聖人 延宝九年辛酉(一六八一)九月朔日」「随縁院受清日照〓 明和二乙酉(一七六五)正月二十六日 宝暦四年甲戌(一七五四)十月十三日 林村所生俗名氏大矢藤介正勝法号 随縁院受清日照逆修」と刻まれている。
また別の塚に四基あり、「南無日奥聖人 日樹聖人 日賢聖人 日弘聖人 日領聖人 日充聖人」「観明院日秀覚位 承応第二之天(一六五三)六月中旬八日」「安立院法樹日久霊 妙立院日性逆修 寛文元(一六六一)年辛丑八月中旬五日」「自性院日逞〓 寛文二壬寅六月朔日三十四歳 当談所 宇徒文育、玅〓(妙法)法界利益無窮 源三位頼政三男判官顕綱末孫大河内氏信清長子 是真院殿道徹大居士 八幡太郎義家五男奥五郎義時末秋池氏義 之娘 真受院殿妙照大姉」このように読み取れる。