字前野一六一一番の二が所在地である。
多古を中心に、寛政六年(一七九四)の秋、不受派の大弾圧が行われた。この場所に次の五人の法難者の墓が見つけられている。「霊鷲院日享寛政六年十一月二十五日 是好院日理大徳同年同月二十六日 得円院法重日身同年同月十四日 信行院常法日種同年十二月七日 一相院法達同年十一月十七日」いずれも牢死とされているが、拷問、または断食死によるものといわれている。
右のうち日享・日理は玉造の庵主で、日身・日種・一相院はそれぞれ与右衛門・与左衛門・伝兵衛を俗名とした玉造村農家の出身者である。