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路傍の小祠・石宮など

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 道祖神 道祖神は外からの疫病悪霊などを防ぎ止める神として村境、坂、辻、橋のたもとなどに祀られ、また、境界を守る神、旅行の安全、男女の縁結び、安産の神、子どもの神として、その信仰の幅は広い。
 椿神社祭神の猿田彦命が道祖神とされるのは、猿田彦が街神(ちまたがみ)と呼ばれた所以によるものである。
 字谷(さく)(南玉造一四六二番)にあるものは、旧玉造城址の得城寺寺領の畑地の一角で、玉造本村への入口であった。この一円を今も「道陸神(どうろくじん)」と呼んでいる。
 足の病や疫病に御利益顕著と伝えられ、この石宮には「延享三丙寅天(一七四六)十二月、願主秋山氏為清」とある。供物の石塊は男根に似た異形の石が多い。
 字花立四六三番の二に一基あり、ここは多古町と八日市場市境界の道路端である。通称六万部原と称された中心部で、現在は畑地帯になっており、日蓮宗三談林(松崎・中村・飯高)の能化であった日賢の六万部塚に接している。旧街道の飯高・松崎・玉作・中村道の合流地点でもある。
 石宮で、異形の石の供物が十数個あり、その背面に次の刻字がある。「道祖神 享和元年酉(一八〇一)九月吉日」
 この後部に石造の案内道標があり、それには「四国西国廻礼 天照皇太神参拝記念 此方飯高 匝瑳 八日市場道 此方松崎山倉両社香取 佐原道 此方多古 成田 芝山道 大正十三年九月建之 南玉造那須徳太郎 富澤幸太郎 石井松太郎 野平藤三郎」とある。現在周囲は畑地として開かれたが、かつては一〇〇ヘクタール余の森林帯であった。
 字京松台二〇七四番の一に一基あるが、ここはもと柏熊新田に通ずる道沿いである。昭和五十六年まで、斜幹の巨松が茂っていたが、虫害のため枯れたので、丁重なお祓いののち伐り払われた。
 口伝に、この松は枝を折っても災厄が人や家に祟るといわれ、怖れられていた。
 また、字内野一〇九六番の一には二基ある。柏熊への通筋で、古木の楠の木の根元にあり、大型のものは根に抱え込まれて刻字は読めず、もう一基は崩壊している。
 字長州三六七七番の二には、大型のものを中心にして小型のものが三〇余並んでいるが、ここは柏熊集落北端の台地上で、山田町との境の道端である。大型のものに次の刻字がある。「慶応辰年(一八六八)九月日 八木沖右衛門」
 太子講碑 字内野一一〇九番地で、玉造から柏熊に通ずる道端にあり、小さな塚の上に、板碑三基、石塔二基がある。これは大工職、建具職などの諸職人の組合が祀ったもので、守護神は聖徳太子である。太子講と呼ばれ、聖徳太子の崇徳碑を建てている。
 そのうちの主な碑には次のように刻まれている。「聖徳太子千参百年祭記念 大正拾稔盛夏 雪堂書 工業組合員鎌形定吉 平山米吉 石井種吉 佐藤幸太郎 石井筆次郎 黒須林蔵 飛ケ谷元太郎 飛ケ谷留吉 宇井菊次 野平定 宇井眞次 佐藤栄吉」「南無妙法蓮華経 聖徳太子観音妙智力 能救世間 宝暦三癸酉(一七五三)二月二十二日 南玉造村大介 平六 治助」「聖徳皇太子 文政九丙戌(一八二六)三月二十二日」
 そして、文政九年(一八二六)三月建立のものの台石には次の名が記されている。「弥五衛門 惣吉 定八 与助 伸吉 惣助 新助 文蔵 三左衛門 忠吉 林平 貞蔵 嘉兵衛 兵助 林蔵 友七 常吉   蔵   助 民蔵 佐吉 忠治 喜八 佐五兵衛 安蔵 大助 吉蔵 与五右衛門 平蔵 高蔵」
 題目塔 字内野一七〇七番の一にある。現在は畑地の中であるが、古くは古墳の上にあり、村に悪疾が流行して多くの死者を出したとき、平癒祈願に建てられたと伝えられている。書の手習いをした子供などの天神講中がよく参拝したものであるという。
 この碑には次の刻字が読みとれる。
 
 「宝永四丁亥(一七〇七)二月之営 南無妙法蓮華経 唱題三千部成就 内野一結男女」
 
 もう一つは字前野一六七〇番の二で、街道に沿ったもと秋山五軒党組の火葬場跡という。「南無妙法蓮華経 元文五庚申歳(一七四〇)十月下浣八日 舜郎院日成  
 句碑 富澤内蔵之助の後裔で筑前黒田侯に仕えた富澤茂嘉の長男賀佐が竹兎園風葉三世を継いだが、その句碑である。
 句碑は平板の自然石に草書で刻まれているが、明治初年まで字前野一六一一番の二の藪中に埋められていた。この前野墓地は一六〇〇年代に拓かれたもので、人里から離れた狐狸の住む寂しい所であったという。
 不受不施弾圧がこの地方に集中されたとき、日蓮宗旧檀林系の不受の僧、比丘は地下に潜行し、その墓碑はことごとく土の中に埋められた。不受不施再興を許された明治九年以降、数十の墓石が掘り出されたが未だ地下に眠っているものもあるという。
この句碑もその一つで、富澤氏の一族からは寛政六年に三人の法難死者を出している。
 その句は、
 
     冷え氷るまてもゆかしき修行かな
 
である。
 
 またもう一つの句碑には、「木のもとに汁もなますも桜かな は(は)せお(芭蕉)
 此于大正七年九月建之  野平一聲 秋山青厳 野平一葉 石井 雪 野平嘉屁 佐藤素研 石井兎秀 秋山紅村 平山凌雲 佐藤 香 宇井   平山知静 黒須小雲 小川 日 石橋梅寿 石井新雪 飛谷梅志 富澤 山     野平相畝 佐藤和月 黒須錦秋 杉田暁雪 富澤義成 四世止々園雪堂 筆」
 
 この句碑の近くに桜の並木があって、坂並入口付近の台田まで続き、明治までは競馬場にもなったという。この句はその桜を詠んだものであろう。
 庚申塔 字尼ケ谷三八〇二番にあり、四基の石塔は病厄を除く庚申講の記念塔で、それぞれ次の刻字が見られる。「奉 二十三夜講中 寛政六年甲寅(一七九四)正月吉日 新田柏熊願主重四郎 施主十二人」「寛政十二庚申(一八〇〇)正月吉日」「元文五天申(一七四〇)十月二十三日 柏熊新田施主」「庚申塔 安政七年(一八六〇)一月 柏熊講」
 八幡様 字台三六九一で、柏熊の氏神第六神社前の塚上にある。林の中の小径を登ると、椎の古木の下に木造小宮が見られる。境内の石造手洗には「奉納多田時之助」とある。
 八幡宮は本来護国の神で、武家の崇敬する神であるが、ここに勧請されたいわれについては不明である。
 大黒天 字長州三六七七番の二にある。柏熊集落の氏神第六神社前を東に入ると、農道に沿って道祖神と背中合わせに建てられている。上屋の下に、聖徳太子と大黒天の二神が祀られている。この地方には不受不施派の隠れ本尊として大黒天像を描いたものが、今も数多く残されているが、そのこととの関連は不明である。「聖徳太子 天保六年乙未(一八三五)正月二十二日 柏熊職人中」「南無大黒天神 嘉永元年(一八四八)十月吉日、柏熊 甲子講中」それぞれ、右のような刻字が見られる。
 子安様 字台三八一〇番にあり、八木氏一族の氏神といわれている。毎年、正月二十五日に柏熊集落で行われる女おびしゃには、必ず詣でる習わしになっているという。
 その石宮に次の刻字がある。「子安大明神 明和三年丙戌(一七六六)正月吉日 柏熊同行 拾人」