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教育と人物

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 黒須巳之吉
 郷土の誇る医学者の一人に黒須巳之吉医学博士がある。博士は明治十八年三月十日、南玉造六三一番地に黒須重次郎の長男として生まれた。郷土の学者富澤義昌にその才を認められて薫陶をうけ、大工の棟梁のあとは継がず医学を志して、八日市場町の渡辺医院の書生となった。のち、飯倉の布施篤志郎の塾に入り、英語・数学・漢文を修めた。
 その後単身上京して東京中学四年編入試験に合格、苦学を続けながら卒業して第一高等学校に進んだ。
 この年干潟町万力出身の医学者で、東京慈恵医学専門学校名誉教授であった金杉英五郎博士をたずねたところ、直ちに同家の書生たることを許され、その後いっそうの勉学に励み、東京帝国大学医学部を大正元年に卒業した。二十七歳であった。
 大正三年にはベルリンに留学、のち英国ロンドンに転じ、さらにスイスのバーゼル大学に学び、耳鼻咽喉科の世界的権威であるジーベンマン博士のもとで研鑚を重ねた。
 同五年、スイスより帰朝後は、金杉病院副院長、慈恵医科大学教授、大学病院耳鼻咽喉科部長などを歴任した。
 昭和二十年には空襲により病院を焼失、父重次郎のために建てた湯河原の別荘に疎開した。
 翌二十一年、湯河原の旅館楽山荘を借りて、病院を再開。三年後、占領軍に接収されていた麻布の旧病院(もと下村海南邸)の返還をうけ、長男正夫を院長として再出発。湯河原病院は愛弟子の吉光閲爾を院長として、いずれも耳鼻咽喉科の病院として活躍している。
 同二十二年にはワシントンで開かれた国際耳鼻咽喉科学会に日本代表として出席、以来、オランダ、スイス、ドイツ、タイ、中国にも出張し、各国学会との交流を続けていたが、昭和四十七年十一月湯河原病院の自宅温泉において忽然として長逝した。八十八歳であった。
 郷里の常磐校の卒業式には必ず出席し、生涯の想い出を語ることを楽しみとしていた老博士であった。