柏熊正岳寺境内に一基の碑があり、御所台の並木栗水撰文になる建立の趣旨が、漢文で刻まれている。明治十四年八月供養導師東照山廿二世田中照心によって除幕されたものである。
この内容について八木家に伝えられる『文書』と『区有文書』を引用しながら事件の経過をたどってみる。
まず当時の時代背景を考えてみると、明治維新政府はそれまでの農本主義から脱皮して、近代産業を取り入れての新しい国家体制を整備しなければならない急務を負っていた。そのためには当然国家資金が必要であり、資金を集める手段として、従来徳川幕府が行って来た、米を現物で納めるという貢租制度を改め、新規の租税制度を作らなければならなかった。
明治三年六月、税制と土地制度の改革案として、概要次のような一案が提出された。それは(一)田地の売買自由。(二)田畑以外の土地にも地租を賦課する。(三)地租は金納。(四)地租額は過去二〇年ないし三〇年の貢租の平均と地価を按分して算出する。などであるが、数百年続いた土地の所有権についての農民の保守的な考え方が根強く残っていて、改革事業の推進は困難であった。そこで明治五年二月、政府は太政官布告によって、土地永代売買禁止令を解き、徐々にではあるが、近代的な土地所有権が確立するようにしたのである。
同年の七月に地券発行を布告し、額面は適当な実価を記載することとした。同六年から九年までを実施期間としてまず地籍の整理を始め、県・郡・村の境界を明確にして一筆ごとに面積を計ってその所有権者と、価格を定め、一筆ごとの地目・面積・価格を記入し、地券を所有者に交付することにした。
しかし、このような土地制度に対しての大改革が行われた明治八年に、山倉村地域内に所有していた柏熊の人達の地券が、柏熊の人には交付されなかった。所有権が認められなかったのである。
問題の土地は
山倉村の内新田字姥神台 本田畑五ケ所
右同段 新畑百拾五ケ所
右同段 山地八拾三ケ所
で、この反別は拾町六反弐畝拾歩である。
そこでこの土地の地券の下付を要求する次のような『所持地名受故障之訴』が、柏熊から新治裁判所(現在の茨城県土浦市)に提出された。
記
新治県御管下第五大区小七区
下総国香取郡南玉造村
原告総代 農 八木金兵衛
同村
同 農 加藤市兵衛
所持地名受故障之訴
同県御管下 第五大区小十一区
同国 同郡 山倉村
被告人 戸長 奈良紋兵衛
当御裁判所より巨離十六里
(中略)
右原告総代八木金兵衛、加藤市兵衛外弐拾九名之代兼奉申上候、去延宝度(一六七三~八〇)山倉村ニテ新規切開縄受以来私共所持罷在貢納諸役相勤居候、前顕之地所今般地租御改正ニ付、山倉村ニテ夫々持主拵畝杭打立候間、及掛合候得共埓明不申迷惑至極仕候、右様先祖縄受且買受所持罷在、御年貢上納仕来リ候地所ニ御座候間、何卒私共名前ニテ地券受相成候様、御裁断奉願上候
明治八年三月二十八日
八木金兵衛
加藤市兵衛
この訴状に対して、同年四月十七日、新治御裁判所長井上権少判事宛に提出された、山倉村奈良紋兵衛の訴答書の要旨は、次のとおりである。
第一、八木金兵衛等申立の内、新田字姥神台本田畑五ケ所というのは字(あざ)違いで、当村字大辺田であり、明暦三年(一六五七)九月三日の検地で山倉村甚兵衛所有と認められた下畑一反六畝廿四歩のことで、この旨検地帳に明記されている。しかし甚兵衛は中古家族が亡くなり荒地となって貢納諸役に差支えたため、村民一同で起返した処、柏熊の八木金兵衛外の者共から、畑不足なので下作したいとの申込があったので、貸付けしたもので、下作証文の無いことを幸いと、永年の恩儀を忘れて、この度の地券交付を申し出たものである。
第二 八木金兵衛等の申し立てる新畑百拾五ケ所は、もと反別壱町四反四畝八歩の山倉村三右衛門外拾七名の耕作地で、これも一時期荒地となって貢納に差支えたため、村民一同で起返し、九斗六升九合の年貢を納めていたところへ、八木金兵衛外の者共から借り入れ申し込みがあったので、弐石壱升六合で貸し付け、年貢の残りは村費へ繰り入れていたところ、武田喜右衛門が名主時代、喜右衛門は南玉造村の清兵衛方より聟に来たことから、山倉村有の土地台帳の所有者名の肩書に故意に柏熊と書き加えたもので、当時の領主松平豊前守より喜右衛門はお叱りを受けた事もあるほどで、山倉村からの貸し付地に相違ない。
第三 山地八拾三ケ所は山倉村の拾九町弐反七畝拾七歩の一部で、山倉村で年貢を払っており、先年、八木金兵衛他三十名の者共が牛馬の飼料、田畑の肥料とする草を刈ったり、燃料を採るために借入れしたいとの申し込みがあったので、隣村の情を以て貸付けたものである。内には質入れ分も一部あるが、これは返り証文もあることである。
このようにして双方の書類提出が揃った明治八年六月に、新治裁判所が廃止になり、事件は千葉裁判所へ回された。そして審理の結果明治十年七月七日「本件は東京上等裁判所で審理すべきものである」として却下された。
その言渡し文は次のとおりである。
裁判言渡書
原告 千葉県第十五大区三小区
下総国香取郡南玉造村字柏熊三拾壱名代兼同所百六拾四番地
八木金兵衛
同右同村字同所百五拾壱番地
秋山惣左衛門
被告 同県同大区五小区
副戸長 萩原又兵衛外五名代兼副戸長
布施八左衛門
所持地名受故障之訴訟審理スル処、原告ニ於テ山倉村ノ内新田字姥神台其他之田地等ハ、従来所有地ニ有之処、被告ニ於テ否ラザル旨ヲ述 地券名受ヲ差拒ミ 該役場之所為甚不適当ナルニ付 即チ戸長ニ相係リ出訴ニ及ビタル旨明言スル上ハ、明治八年司法省甲第五号布達ニ比準シ、上等裁判所ヘ出訴致スベキ筋合ナルニ付、該件ハ当庁ニ於テ不及裁判候条 其旨可相心得事
東京裁判所
千葉支庁 印
明治十年七月七日
その結果、原告の柏熊側は再び明治十年八月四日に東京上等裁判所へ控訴することになった。
提出済の答弁書・証拠書類の一切は、東京上等裁判所に送られて、上級審の審理が開始され、八木金兵衛・八木卯之助差添人・宮崎靏吉の三人は、東京府神田今川小路一丁目佐藤ヤス方を宿所として同十一年一月十七日から法廷闘争に入った。このときに提出された柏熊側の申立を要約すると、
一、山倉村から提出された地図は、字名の書き改めがあって不正のものと思われ、慶応元年の「御林新畑御物成毛割付帳」に記載されている人名は、権助、右馬之助両名の子孫が明らかでないだけで他は悉く柏熊住民の先代であって、このことはかえって柏熊住民の先代からの所有地であることを立証するものである。
一、本田畑五筆は甚兵衛、茂右衛門の旧所有地で、両家が潰れた後に村中で保有し、村の共有にしたというが、名寄帳を書き替えた事が、初審裁判所で発覚し、そのときの忠兵衛の始末書がある。これによって共有の証拠は無く、また貸し渡したものであれば、公税を受領すべき筋合ではない。
一、山地の内、柏熊の者が他へ一部を売り渡した際の「売渡証書」に、山倉村名主が認承印を押している事実をみても、これは柏熊住民の所有権を山倉村名主が認めている事を証するものである。
一、山地は小作米を受け取って使用を許したものというが、小作米を領収した証拠が無く、この地内に柏熊住民十三名が使用する埋葬地、庚申塚、地蔵堂、火葬場等が建設されていて、使用目的変更に対する地主からの異議申し立ての証が無く、一方借地であれば何時返還するかも知れず、この様な地へ永久施設を設けることはない。したがってこれは柏熊住民の所有地なるが故に設けたものである。
一、柏熊住民の先祖は山倉村の住民であるとの申し立てであるが、二百数十年以前に、山倉村より十三名、南玉造より二名、川島、松崎、助沢より各一名出たもので、この事は論争と直接の関係はない。
一、嘉永年度に山倉村名主武田喜右衛門が、柏熊の加藤清兵衛の実弟なるが故に、柏熊住民と馳れ合い、土地台帳氏名上に故意に柏熊と記入し、この不正発覚のため、名主を退役し、村民に対し詫証文を差し入れたとの由であるが、この件は山倉村内で名主を二名にした事から村民が両派に別れた紛争であって、そのため、武田喜右衛門が退役したものである。このことは添付証拠書類で明かである。
こうした論争の結果、判決は、該当地・姥神台は、地籍は山倉村、所有者は柏熊住民となり、柏熊側の勝訴に終った。
この経過と結論を史実として現在に伝えるのが柏熊住民を原告人とする東京上等裁判所への控訴文と、これに対して山倉側が原告人として記裁のある同裁判所の言渡し文である。ここに言渡し文を掲載して参考にしたい。
裁判言渡
千葉県下総国香取郡山倉村玉造忠右衛門外百四拾弐名総代兼同村
原告 奈良紋兵衛
原告 武田八良右衛門
千葉県下総国香取郡山倉村玉造忠右衛門外百四拾弐名総代兼同村日下部五左衛門 代人
東京府浅草区西三筋町三拾四番地寄留千葉県
原告 時友一良
千葉県下総国香取郡南玉造村字柏熊百七拾六番地加藤市兵衛外三拾名代兼同村百八拾五番地
被告 八木金兵衛
同村百八拾番地
被告 八木卯之助
千葉県下総国香取郡南玉造村字柏熊百七拾四番地
宮崎鶴吉代言人
東京府深川区佐賀町弐丁目参拾弐番地寄留 茨城県士族
被告 鴨志田直
所有地権利争論ノ訴訟東京裁判所千葉支庁ノ裁判不服及ビ控訴ニ付審理判決スル左ノ如シ
原告ニ於テ論地ハ原告ノ共有地ニシテ被告ヘ小作ニ相渡シ置タルモノナル旨、原告第一号乃至第拾四号番外第壱号乃至第九号証ヲ提供シ種々申立ルト雖モ、原告第一号証ニ大ヘタ下畑壱反六畝弐拾四歩甚兵衛トアリ、第二号証ニ大ヘタ下田壱反六歩茂右衛門トアルモ、該二筆ノ地ガ原告ノ共有地トナリシ証跡無之、論地ノ本畑四筆ハ原告ニ於テハ字大ヘタト云ヒ、被告ニ於テハ字大坂ト云ヒ其ノ字ハ何レカ是ナリヤ之ヲ定ムルノ証ナク、右下畑壱反六畝弐拾四歩下田壱反六歩ハ番外第一号証、本畑四筆、本田一筆ナリトスル証ナク、又、第三号証、延宝三年山倉村水帳ニ、三右衛門外拾七名ノ高請アルモ右人名ノ肩書ニ柏熊トアリ、ソノ柏熊ト記シアルハ、嘉永度ニ於テ山倉村名主武田喜右衛門ナル者ガ、被告ト馳合記入シタルモノナル旨、第六号証ヲ以テ証明スレトモ、右考証ニハ我等儀名主役勤中不正之筋有之趣ヲ以テ云々、水帳其外、村方諸帳面等ヘ、不都合出来候分、不残御詫申入云々トアリテ、第三号証ヘ柏熊ト記入シタルノ明記ナキノミナラズ、果シテ武田喜右衛門が水帳等ヘ記入セシ不正ノ所業、発覚セシナラバ、水帳ハ一村の所有ヲ定ムルノ証ナレバ、是レ一村ニ関スルヘキ重大ノ事件ナレバ、特に第六号証、喜右衛門の記書ニ止ルベキノ理ナク、殊ニ右六号証、喜右衛門名下ニハ、八郎右衛門ナル者ノ押印ニテ、親類代印トアリ、旁、六号証を以テ三号証ノ柏熊トアルハ、喜右衛門ナル者ガ被告ト馳合喜右衛門の故造ニ罹ルモノトハ難見認、而シテ、第三号三右衛門外拾七名ハ、原告村ノ人民ナリトスルノ証ナシ(中略)然レバ論地ハ原告第三号証、三右衛門外拾七名ヨリ被告ノ相続シタル証跡判然セザルモ、本訴、原、被ノ間ニ於テハ、既ニ原告第三号証、三右衛門外拾七名々受ノ地ハ、被告カ所有シ、其被告ノ所有スル地ハ原告ヨリ小作地ニ相渡シタリトノ事ハ原告ノ陳述ニ止リ、其ノ小作地ナルノ証跡無之ノミナラズ、論地ハ原告ノ共有地ナリトスルノ確証無之、而テ被告第三号、第四号、第五号、第六号、第九号証ノ如ク、原告村ニテ論地ノ租税ヲ被告ヨリ取立アレハ、論地ハ原告村ノ地籍ニシテ被告ノ所有地ト認定ス、因テ、原告申分難及採用、初審裁判ノ通リ可相心得候事
但 訴訟入費ハ規則ノ通 控訴原告人ヨリ控訴被告人ヘ可及償却候事
明治十二年十二月十五日
東京上等裁判所 印
以上が柏熊と山倉村の土地争いの概要である。
この問題は裁判所に出訴する以前から、両者の間に多年にわたって折衝が重ねられていたものであり、明治八年一月二十二日に、新治県権令・中山信安宛に調停願を提出し、その後も地元代表八木金兵衛、宮崎伝三郎らは数度にわたって上申を重ねている。
そして裁判に入ってからは新治裁判所より東京裁判所千葉支庁へと移り、最後に判決に不服の山倉村が控訴して右の判決を見たのが明治十二年である。
右の資料はその一部であるが、柏熊から提出した上申書の控、証拠物件の現物、および写、経費の明細書など膨大な文書が、完全なまま区有文書として残され、また八木家にも保管されている。