上総安房県知事の管轄下に入った村々は、徳川時代末期に治安維持の目的で、関八州取締出役が隣接の村を組み合せて大組合小組合の組織を作ったが、この小組合を一単位の行政区画としてそれに従属する村々である。従来の名主代表が政府との連絡折衝に当ったが、これは触元名主または防捍頭取といわれ、その執務場所である宅は御伝馬所と呼ばれた。旧常磐の村が組み込まれた範囲は、金原・方田・飯高・安久山・川島・内山・小高・坂・大寺・小川・春海・飯塚・大角・米持・山倉・鏑木・新里・万力・桐谷・秋田・東松崎で、大寺村に御伝馬所があり触元名主は大寺村の林敬司が勤めた。
明治二年になると版籍奉還が行われこれまでの大名たちは、支配者としての座を政府に返還した。政府では各藩の行政関係者を官吏に任命して、旧藩の組織を残しながらも新しい改革を行っていった。このとき多古藩主久松家は藩知事を任命された。一方上総安房県知事に統治された村々は宮谷県に編入されている。
ここに『宮谷県官員録』によって当時の県の機構職務の一部を見てみよう。
宮谷県官員録 明治三年三月写之
権知事 筑州久留米藩柴山文平(藤原典)
大参事 笠間藩中林清風(平清風)
同 徳島藩中山 勝(源光令)
少参事 久留米藩赤司万蔵(藤原重春)
同 福岡藩福井 庸(源一直)
大属 厩橋前橋藩新荘 止(藤原止谷)(以下大属七名略)
権大属 旧幕臣帰順藤囲徳三郎(源 茂方)(以下権大属四名略)
少属 久留米藩八木銀平(藤原惟次)(以下少属二名略)
権少属 士族水野金之助家来室 勤作(藤原誠之)(以下権少属十二名略)
史生 上総望陀郡蔵波村草堀 謙蔵(源 信義)(以下史生六名略)
使部 久留米藩高木 際(藤原正俊)(以下使部他一九名略)
明治四年七月に廃藩置県が実施され、多古藩は多古県となったが、同年の十一月十三日には新たに木更津・印旛・新治の三県が設けられて、この地方は新治県内に入った。
県庁は土浦町土屋氏の居城別名亀城の跡に造られ、初代権令は池田種徳で、香取海上匝瑳の三郡を管轄する支庁は小見川に置かれた。この頃から政府は、行政の基本となる新戸籍法制定の準備に入るが、今まで宗門人別帳で村の寺院にゆだねてあった事務を、政府自からの手で行うわけである。人口調査の完全を図って行政区画を定め、同時に村内政の改革を進めた。その内容は次に述べる『御達書』のとおりである。
御達書
荘屋名主年寄並正副戸長癈止之事
但し村々ニ依而郡中惣代大荘屋等村役相勤候称之者総而癈止候事
一、今般各邨へ更に正副戸長可差置、従前村役人扱居候事務並戸籍共一切可取扱候事
但し人数定額追而可相達事
一、正副戸長役料並入費等之儀、追而可相達候得共、夫迄之処当分従前庄屋名主年寄等之振合に準じ取立可申事
右者今般御改正之儀被仰出候間相達候也
壬申(一八七二)四月 新治県
第五大区小十一ノ区下総国香取郡
金原村、方田村、飯高村、安久山村、川島村、内山村、小高村、坂村、大寺村、小川村、匝瑳郡春海村、香取郡飯塚村、大角村、米持村、山倉村、鏑木村、新里村、万力村、桐谷村、秋田村、東松崎村、〆二十一ケ村(但南玉造は五大区小七ノ区)今般管内区画改正、前記村々第五大区小十一之区と称呼候条、区内村々一和致し諸事可申合事
一、従前触元村之称並組合等総而癈止之事
但し自今布告等之儀第五大区高岡村へ差付相達、夫より小区之最寄村々へ相廻し、尚又同村より区内各村へ速ニ可相通事
壬申四月 新治県
士族自今組合相立可申事
但し村市従前之例ニ可随事
一、士族戸籍僅少之場所者何分熟儀之上平民と組合相立候様可致事
一、村市組合従前規則不同有之候ハヽ、追而釐正一般ニ整正可致事
但し士族平民共従前規則不同有之向者、五人組ニ改正致し証印ヲ差出し可申事
右之通相達候也
壬申四月 新治県
自今布告書類各村制札場へ屹と張出し、無洩公布相成候様可致、尤張出し之分ハ其旨相記し差出候事
但し雨ニ不湿候様可心付事
壬申四月 新治県
明治六年この地域は未だ新治県であったが、千葉県の名が初めて登場した。
同じ頃新治県内では町村合併の胎動があって、これに対しては次のような要望書が提出されている。
合併村之義ニ付議約書 東松崎村
一、此度御県庁様より被為有御深慮村費相省ク之御方法、弐三ケ村若クハ四ケ村合併適宜可致御布達ニ付、当小区不残出頭協議之上、右小区弐拾壱ケ村ヲ壱村ニ合併之仮議約確定之由被申付、村方一同事情協議候処小区不残壱村ニ合併候而者後年之記憂を 斗、就而者地続隣村川島村山倉村大角村自村共四ケ村合併相成候様御周旋相成候ニおいてハ後日違議無御届候為後日議約連印書依而如件
明治八年一月十五日
(村民一同連名捺印省略)
正副戸長御中政府の方針に対して、自からの新しい村作りの希望を申し出たわけである。こうしたこともありながら、明治八年五月七日に新治県は廃止されて、香取海上匝瑳の三郡は千葉県に編入された。
ここで現在の千葉県ができ上り、行政区画の再編成が行われた。その基準は小区の一区画縦横約一里半、戸数一、三〇〇戸から七〇〇戸として、区画毎に戸長一名、副戸長一名各村々に用掛を置くことにした。
川島・東松崎・山倉・鳩山・桐谷・新里・小川・小高・内山・飯高・方田・坂・大角がその区域で、千葉県第一五大区五小区となり、小区取扱所は東松崎村に置かれ、十四・十五大区を管轄する県庁出張所は香取に設けられた(南玉造は三小区に編入)。
明治一一年七月二十二日に郡区町村編成法が公布されて、これまでの大区小区は廃止され、郡をもって一区域とすることになり郡役所が佐原に設けられた。二七五村二万六九一戸の村々は数カ村が連合して事務処理を行うことになり、九〇の連合村ができたが、戸長は各連合村について一名とした。
このときの連合村が東松崎外四カ村連合村で、「東松崎・坂・方田・川島・山倉の五カ村」を区域とした。公選初代戸長には東松崎村の飯田善作が就任して戸長役場を自宅に置いた。戸長役場時代に定められた運営についての規則に次のようなものがある。
戸長管理村々連合会規則伺
本年第拾八号御布告ニヨリ、香取郡東松崎村外四ケ村連合会規則別紙の通相定メ施行致度、連合村々一同協議候間御裁定被成下度、村々総代人連書此段奉伺候也
明治十三年十二月十三日
香取郡東松崎村 佐藤七兵衛
同郡 山倉村 松井 熊吉
同郡 坂村 山崎弥惣兵衛
同郡 方田村 平山 金蔵
同郡 川島村 並木直右衛門
右戸長 飯田 善作
千葉県令船越衛殿
戸長管理村々連合会規則
第壱条 本会ハ東松崎村、山倉村、坂村、方田村、川島村連合戸長以下給料又ハ役場事務取扱費等ノ補助スヘキモノアレハ之ヲ議シ、其他連合村々公共ニ関スル事件及経費ノ支出徴収ノ方法ヲ議定ス
第二条 本会ノ議案ハ戸長之ヲ発ス
但シ議員ヨリ意見書ヲ出ストキ戸長之ヲ取捨シ、当ニ議スヘキ意見ト認ルニ於テハ直ニ之ヲ会議ノ議案トナス事ヲ得
第三条 本会ノ議決ハ戸長ヨリ郡長ニ報告シ戸長之ヲ施行スルモノトス
但シ郡長ニ於議決ヲ不適当ナリト認ムルトキハ其施行ヲ止メ郡長ヲ経テ県令ノ指揮ヲ乞フ事ヲ得
第四条 本会ハ当連合村々ノ利害ニ関スル事件ニ付過半数ノ内議ヲ得タルトキハ当連合村々又ハ本会ノ名義ヲ以テ県令ニ建議スル事ヲ得
第五条 本会ハ県令又ハ郡長ヨリ当連合村々ニ施行スヘキ事件ニ付意見ヲ問フ事アルトキハ之ヲ議ス
第六条 本会ノ議員ハ、個数拾個毎ニ(拾個ニ充サル分ハ総テ除去)壱員ツヽ出スノ割合ヲ以テ各村会議員ノ内ヨリ互撰セシムルモノトス
但個数ハ各村改正耕宅地反別三町歩戸数弐戸ヲ各壱個トス
第七条 本会ノ議長副議長ハ議員中ヨリ公撰ス
第八条 議長副議長及議員ハ俸給ナシ、但会議ノ決議ニ依開会中出場ノ日数ニ応シ弁当料ニ充ツルニ足ル金員ヲ会費ノ内ヨリ附与スルヲ得、庶務ヲ整理スル為ニ書記ヲ撰ムトキ其日当ヲ給スルモ又同シ
第九条 議員半数以上出席セザレバ当日ノ会議ヲ開ク事ヲ得ス
第十条 会議ハ過半数ニ依テ決ス、可否同数ナルトキハ議長ノ可否スル処ニ依ル
第十一条 戸長若クハ其代理人ハ、会議ニ於テ議案ノ旨趣ノ弁明ヲ得ルト雖モ決議ノ数ニ入ルヲ得ス
但第二条但書ニ掲クル議案ノ旨趣ハ、意見書ヲ出セル議員之ヲ弁明スル事ヲ得ル
第十二条 会議ハ傍聴ヲ許ス
但シ戸長ノ要メニ依リ又ハ議長ノ意見ヲ以テ傍聴ヲ禁スルヲ得
第十三条 議員ハ会議ニ方リ充分討論ノ権ヲ為ス、然レトモ人ノ身上ニ付褒貶毀誉ニ渉ル事ヲ得ス
第十四条 議場ヲ整理スルハ議長ノ職掌トス、若規則ニ背キ其指揮ニ従ハサルモノアルトキハ議長ハ之ヲ議場外ニ退去セシムルヲ得、其強暴ニ渉ル者ハ警察官吏ノ処分ヲ求ムルヲ得
第十五条 本会ハ定期ナシ其開会ハ戸長ヨリ達スルモノトス
以上
同じく同年に、「香取郡川島村村会規則」を制定しているが、その内容は前書とほぼ同じであるので、省略する。
明治十七年七月、再び行政区域が変更され、この時から川島・東松崎・坂・方田・南玉造の五村が連合村となり戸長役場は川島の佐藤孫右衛門宅に移された。
明治二十一年十二月、戸長役場を川島村の妙蔵寺に移したが、翌二十二年四月一日、市町村制が交付され、郡内二七七町村は分合されて四四町村となり、各村に長を置き、村会議員選挙が行われた。それまでの五カ村は一村となり「常磐村」と称し、川島区字馬場道上に役場庁舎を新築、村政の自治が発足した。
その後庁舎はさらに移転新築されたが、昭和二十九年三月多古町に統合合併後は常磐出張所と改称され、その後間もなく出張所が廃止されて、庁舎は解体された。
通じて六五年の村政であった。