栗源町・山田町を源流とする栗山川とその支流が南玉造地先で合流し、次第に川幅を拡げながら南流する。この流れの東側沿いに一つの台地があり、その北端が南玉造、次いで北中・南中と続く。南端に南並木があり、この南面水田地帯の中央で栗山川本流と借当川とが合流している。西方は水田地帯中央を流れる栗山川をはさんで多古の中心街へと相対している。
多古から八日市場へ通ずる県道が東西に走り、集落の中央部で小見川方面へ向かう県道と交わっている。旧中村時代には村役場もこの地にあって、行政の中心地となっていた。
現在行政上の区画は、多古町南中という大字になっているが、実際にはこれを第一・第二の二区に分け、二名の区長が選出されている。さらにその下部組織として各小字ごとに代表者を置き、それぞれが独立して自主的な運営を行っている。南中第一区・南中第二区はそれぞれ小字の連合体になっているわけで、その小字は南中第一に新田・宿・芝・横宿・鴻の巣。南中第二に高田・東谷・西谷の八つである。
一行政区画としての南中の規模は大字「東部」を含めて次のとおりである。
宅地 二一町三反七畝
田 八三町八反一畝
畑 五六町八反四畝
山林 三五町四反五畝
原野 五反七畝
池沼 八畝
その他 五町五反一畝
計 二三町六反八畝
世帯数 二三六戸
人口 九七九人 内 男四七一人 女五〇八人
これが現在(昭和五十九年十月調べ)の姿であるが、昔はどうであったろうか。現存する最古の『水帳』はその集計部分で、当時の様子を次の如く詳細に書き記している。
右之寄
田畑屋舗合 百拾三町八反弐拾弐歩 分米 六拾五石壱斗三升
わけ 中畑 七町五反七畝弐歩
上田七町五反壱畝五歩 分米 四拾五石四斗弐升四合
分米 百拾弐石六斗七升五合 下畑 弐拾八町七反四畝弐歩
中田 九町九反六畝拾歩 分米 八拾六石弐斗弐升弐合
分米 百拾九石五斗六升 屋舗 四町五反六畝拾弐歩
下田 四拾八町弐反弐畝壱歩 分米 四拾五石六斗四升
分米 三百三拾七石五斗四升弐合 高合 八百拾弐石壱斗九升三合
上畑 七町弐反三畝弐拾歩 三百九拾三石壱斗六升五合 本田
拾六石弐斗四升弐合 古新田
四百弐石七斗八升六合 新田
右之外除(省略)
地引
十兵衛 三郎兵衛
清左衛門 喜右衛門
権右衛門 与右衛門
半右衛門 市郎兵衛
七郎左衛門 太郎左衛門
源兵衛 庄右衛門
竿打
孫右衛門 市右衛門
長兵衛 伝左衛門
七郎右衛門 清右衛門
元禄十一戊寅年(一六九八)十月
星野平左衛門
永友八郎兵衛
三浦弥市右衛門
この分米(耕地の石高)は、一四七年後の弘化二年(一八四五)になっても変わっていない。すなわち、同年の『関八州取締役控帳』を見ると、
高 八百拾弐石壱斗九升三合
家 百三拾四軒
南中村 松平相模守(勝権)領分
となっている。
さらに、明治元年に調査した『旧高旧領取調帳 関東編』によれば、
南中 多古藩 八一八石五斗七合
六所大神領 二十石六斗八升九合六勺
妙興寺領 二十九石九斗九升九合七勺
日本寺領 十四石八斗六升九合二勺
北中村浄妙寺領 十二石八升
となっているが、この増えた分は、明和四丁亥年(一七六七)の『亥より卯迠御成箇割付』に記されている次の内容である。
一、高壱石三斗四升弐合 午新田
取米三斗七升五合
一、高弐石六斗壱升三合 新屋舗
取米七斗八升三合九勺
一、高壱石七斗弐升壱合 子新田
取米五斗壱升六合三勺
一、高六斗三升八合 酉改新畑見取
取米壱斗七升三合六勺 明和二酉年改之上高ニ入
(計六石三斗一升四合)
増えたとはいえ、極めて微細なものであるため、明治に至るまで石高の変更なしに年貢の徴収を行っていたものと思われる。
これらのことを考えると、元禄から明治までが変わらず、それ以降現在まで約五〇町歩近く増えている(ただし、田畑・宅地のみ)のは、すなわち明治以降の開拓によるものと考えられる。