承平四年(九三四)ごろに著された『和名類聚鈔』にはすでに「匝瑳郡中村郷」と記されており、『姓氏録』には「中村連は天乃古矢根命之後也」とあるが、同命の子孫がこの地一帯にいたのかもしれない。匝瑳郡内の中心であったところから「中村」の名が起こったであろうとは、谷津出身の歴史学者村岡良弼の説であるが、同氏も、南中・北中に二分された時代を明確には記していない。
しかし、集落内の各所に残されている先祖供養のためなどに造られた板碑は、その奉建年号が読み取れるもので元和(一六一五)以前のものだけでも二四基ある。
このような古い時代に立派な供養碑を建てるためには、経済力の充実もさることながら、宗教文化の発達が、想像以上に著しく地方へと侵透していったためのものと考えられる。
これらの板碑は、当初から現在地に建てられたものか、何らかの理由によって他所から移されたものかは不明であるが、現在建っている場所を所管する寺院の項で、その内容を、由来縁起とともに記すことにする。
板碑の造られた観応二年(一三五一)から寛正五年(一四六四)にかけては、南北朝が激しい争いを経て両朝が一つになり、義満が金閣寺を建てたのもこの時代である。
当地方では、千葉氏が同族の内紛により、胤直・胤宣父子の多古・島両城における自害のため、その正統が断えるという事態が生じたことによる混乱も当然起こったであろう。
しかし一般庶民の生活は、ただ毎日が労働の明け暮れであり、地域における小集団での題目講ぐらいが、せめてもの楽しみであったし、心の拠り所として求めていくのは、集落における寺院のそれであったろう。
郷土の歴史を探っていくうえに、神社・仏閣の資料は最も貴重であり、人々の生活・村の起源とのかかわりがなにより深いものがある。南中の集落については、特に文化の象徴でもある寺社の創建にまつわる事象をとおして、人々の歩みを辿ってみることにする。