字横宿三四四番の二に所在する。多古から千葉交通バス八日市場線および山倉線のバス停「宿」から西方へ五〇メートルほど下った所で、峯の妙興寺表参道入口に南面して建てられている。
社前の道路には家々が向かい合って軒を連ね、その小字名が示すとおり宿場の形態を備え残している。中村檀林日本寺の東側を通る「台坂」を下った所で、旧街道筋でもある。
その昔、檀林日本寺に多くの修行僧が学び、妙興寺に善男善女の参詣人が絶えなかったころ、湯屋・旅人宿・女髪床・酒肴店・すし屋などがあり、大正初期まで小規模ながら営業を続けていた様子が今に残されている。
この社は御神体が牛頭天皇で、火伏せの神である。現在の南中第一区の産土神でもあり、例年正月二十五日にはお備社が行われる。女備社は二月八日で、祭神は鬼子母神である。
祭礼は七月二十七日で、山車を引き、かなりの夜店も並び、二日間にわたって近郷近在からの人々も含めて相当な賑わいであったが、現在は旧多古町内の祇園祭と同日であることのためさびれてしまった。本殿の中には、元文三年(一七三八)の「祭礼当番帳」も残されていた。
同社は一説に、この宿場一帯の南側に大きく屋敷を構えていた名家平山藤右衛門一族(いわゆる「平山五軒党」)の氏神であったともいわれている。
小さな社殿ではあるが玉垣に囲まれており、奉献物としての石燈籠一対には「御宝前 文化十二年乙亥(一八一五)六月吉日 願立平山左衛門 出村伊与吉」「御宝前 三丙子(文化十三年、一八一六)六月吉日 宿くるハ(廓)新田」とあり、二基ある石の手洗いには「奉納 下町中」「奉納 明治三十三年第六月吉良日建之 発起人依知川長左衛門 平山定助 佐藤徳太郎 平山又兵衛 平山新右衛門氏子中」と刻まれている。