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鴻之巣(こうのす)の諏訪神社

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 字中城六十二番の一にある。字名が示すように城砦の守護神として創建されたものであろう。
 中城は別項にも述べたように、永承中(一〇四六~五二)中村小太郎常方が源頼義に属して功があり、本城を築いて子孫に伝え、享徳・康正中(一四五二~五六)中村但馬守が居城し、馬加氏に滅ぼされたとの伝承がある。
 三方を水田に囲まれた高台であり、北から南へと台地が突出している。その脊梁部を道路が縦走しているが、これは佐原方面への旧街道で、南端の坂道を「城坂」といい、ほぼ南中と南借当との境界にもなっている。
 城跡と伝えられ、またそれらしい様相の残っているところは、この台地西側に水田が細く入り込んだ最末端部から、台地全体の南端までにわたっており、旧街道といわれる道路東側の崖ぎわには、南借当の項に記した「土櫓」がある。城跡といわれる範囲は広く、既にその区域を明確にすることはできないが、空壕や築堤などの最も多く残っているのは同社左手の林の中である。
 昭和三年の報告書によれば、
 
   千葉県香取郡中村大字南中字鴻之巣
                無格社 諏訪神社
一、祭神 健御名方命
一、社殿 本殿
一、境内 三百坪
一、氏子 一九四戸
一、氏子崇敬者ノ過去ヨリ現在ニ至ル状況
  往古千葉胤貞公が中村南中高台ノ一角ヘ城ヲ構ヘ中城ト称ス。当城東北鬼門ノ方ヘ氏神トシテ祭リシ者ナル由云伝フ。千葉家滅亡後、仝所葉木重郎兵衛氏ノ宅地内ヘ氏神トシテ移セシヲ庶民信仰シ、天文年中(一五三二~五四)当境内ヘ遷座ス。
一、社殿ノ営繕及境内ノ整理状況
  (略)
一、崇敬心涵養ノ為メ殊ニ努力シツヽアル事項及其ノ経過
  本社ハ往古ヨリ中村字鴻巣ノ一角ニアリ、諏訪神社ト称シ区民ノ守護神トシ崇敬厚ク、年々旧二月一日区ニ於テ奉謝祭ヲ挙行シ(以下略)
 
 このように記されている。
 町史資料『中村神社明細帳』には同社の由緒として「下総国香取郡葉木重郎兵衛宅地内ノ氏神ナルヲ、庶民信仰シヨリ、天文年中境内ヘ遷座ス。今ノ初是ナリ。文亀元年(一五〇一)創立」と述べているが、創立の年としている文亀元年より八年前の明応二年四月五日に、武射郡(山武郡)坂田城が足利義明と里見義成の軍に攻略され、城主木内胤敬は討死、夫人原氏も城南の沼に投身するという戦いがあり、さらに永正年間(一五〇四~二〇)には牛尾胤仲が三浦入道を滅ぼして多古城主となったとされている(『山室譜伝記』)ように、当地方一帯は混沌とした戦乱状態が続いていたものと思われる。
 祭神の健御名方命は、代々武田家の守護神で、軍の神としてその名がある。当地においても戦勝を祈願するため城内、あるいは鬼門の方角に祀られたのであろうが、ある時代に葉木家の氏神として信仰されるようになったといわれることを裏付けるかのように、現在でも本殿の鍵は同家が保管しており、二月一日の備社祭に当たっての供物は主催する区で準備するが、九月二十三日の祭礼のときに供える供物は葉木家でととのえる習わしであるという。