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由緒・縁起

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 『中村寺院明細帳』によると、その概要は次のようになっている。
 
   千葉県管下下総国香取郡中村字八郎
       法華経寺末 [明治三十五年十月十六日朱書之通 誤謬訂正許可 内 四五九九号]
                                   本山(朱書)
                                 日蓮宗    日本寺
                                        本山日本寺(朱書)
一、本尊   釈迦牟尼仏
一、由緒   天正十五年(一五八七)日円創立ニテ日蓮一派ノ元学校ニテ伝来セリ 明治八年始メテ住職セリ寺院トナレリ
         七間三尺(朱書)
一、堂宇間数 間口拾五間 二十三年九月廿七日朱書之通改造許可
         七(朱書)
       奥行九間
一、庫裡   間口四間 奥行六間
一、境内坪数 五千百坪 民有地第一種
一、境内仏堂 五宇
   妙見堂
    本尊 妙見大士
    由緒 不詳
    建物 間口二間 奥行二間
   摩利支天堂
    本尊 摩支尊天
    由緒 明治九年創立 東京下谷徳大寺ノ写ヲ当寺境内ニ安置ス
    建物 間口三間 奥行三間
   薬師堂
    本尊 薬師如来
    由緒 明治九年創立
    建物 間口一間 奥行一間
   稲荷堂
    本尊 豊田霊
    由緒 不詳
    建物 間口一間 奥行一間
   稲荷堂
    本尊 岡田霊
    由緒 不詳
    建物 間口一間 奥行一間
一、住職 (明治)二十年十月十八日退   伊奈日要
        [二十年十月十八日任 三十七年十一月二日退]  加藤日慶
        三十七年十二月七日任命 清水竜山
一、信徒人員  百五拾人
一、管轄庁距離 拾弐里拾五町
                                          (以下略)
 
 佐野区有文書によると、宝永二年(一七〇五)二月十九日(『正東山日本講寺歴代譜』によれば元禄一四年・一七〇一)に西谷の火災による類焼の被害を受け、さらに天明七年(一七八七)二月十四日にも火災に遭っており、宝永のときは、時の化主四十世日好が自らの衣物を供してその重責を負担し、翌年復興。天明のときは「講堂再建御講」を組織して数年のうちに旧観に復したという。一六〇世日翁の代のことである。これ以前の講堂は、不受不施信仰のことから除歴・弾圧されて、堂宇も荒れるがままになっていたのを、八世日境が正保元年(一六四四)に再建したものである。
 以後幾星霜を経た今日、旧檀林当時の建造物で残っているものは、山門と鐘楼、経蔵(宝蔵庫)、妙見祠のみにとどまり、現在の講堂は三三一世加藤日慶が明治二十五年に建築したものである。
 旧講堂は前記のように正保元年に造られたが、総欅材を用いた一八間四面(三二四坪)の萱葺きであったという。境内の巨樹大木を伐採して建て替えたわけであるが、そのために水戸光圀が名付けたという臥竜山・壺丘(山の形が竜のとぐろを巻くに似ているところから臥竜山痒。また壺の形に似たところから壺丘と雅称)などの名もむなしいものになってしまい、往時を知る古老たちはそれを嘆き惜しんだということである。
 なお経蔵は、第十世日筵が承応二年(一六五三)春に建立したもので、その後の補修は度々なされたであろうが、なお老朽が甚だしいため、近年になって前貫首中条是竜師(昭和五十九年四月没)が修復している。
 縁起には、次の文書が示すように、中山法華経寺開山常修院日常が、永仁三乙未年(一二九五)に隠居してこの地に草庵を結んだのを、その起こりとしている。
 
 下総国中村郷正東山日本寺学室者、正中山開基日常聖人御隠居ト当山第十世日俒聖人御定被遊候故ニ、常師正影奉ル納メ置キ。檀林聖人職之儀、門中真俗存-置ス之ヲ信敬益〻深シ。殊ニ以テ為ス一宗講談之根源ニシテ法燈相続之霊地ト。弥々代々能化永代色衣、自門他門不不審者也
   寛文十二太才壬子年(一六七二)六月四日
                                正中山(法華経寺)三十八世日秀御判
     中村談林学徒中
 
 日常は清和源氏から出た武将で、富木(とき)五郎胤継といい、代々因州(鳥取県)富木郷にいたが、後下総八幡庄若宮邑に館した。母を亡くしたときその骨を身延山に収め、宗祖日蓮の手によって薙髪、入道して常忍日常と改めた。弘安四年(一二八一)には、日蓮が自ら日常の木像を彫って贈ったのに応え、日常もまた日蓮木像を刻んで生涯敬い奉じたという。この像は現在も寺宝として本堂内陣に安置されている。
 また『香取郡誌』には「寺伝に曰ふ。元応元年己未(一三一九)十二月日祐之を開基し、其師日常を以て開山とす。千田大隅守胤貞山林境内等を寄附す」とあるが、正中年(一三二四~二五)ごろ、中山三世日祐が当地方の布教に際して窪(久保)村を通ったとき、「窪殿」とも呼ばれていた千田庄領主千葉胤貞は、日祐の学識にうたれて帰依し、菩提寺であった飯土井真言寺を法華精舎に改めたという。あるいはまた、高田妙見社西方の寺山に別当寺を建てて祈願所としたが、これが現在の芝徳成寺のもとであるともいわれている。
 さらに胤貞はその二子を僧侶とし、日胤・日貞と改めさせ、小寺を西谷に建てて日祐を招き、日胤が開山となった。日祐が常に高師(先代・日高)に篤孝であったことから「高祐山東福寺」と称した。弟日貞は徳成寺を継ぎ、宗門の興隆に尽くした功により、日蓮真筆の首題一幅を授けられ、今もなお同寺に伝承されているという。
 また、日胤・日貞は太田五郎左衛門尉の子で、日祐を師と仰ぎ、千葉胤貞の猶子(名目だけの子)となるが、中山二世日高の甥であることから、寺を「高祐山東福寺」と名付け、日高・日祐を開山としたともいわれている。
 東福寺歴代は、日常を初代として日高・日祐・日胤・日貞・日英・日乗・日円・日賢・日東・日詮・日俊・日鎮・日恩と続き、末寺十カ所、塔中二坊があったという(『日本講寺歴代譜』)。
 ところで、当地へ隠居した日常の後、中山法華経寺は、日高・日祐・日遵・日暹・日薩・日有・日院・日靚・日俒と十代続いて来たが、いずれも開基日常、すなわち富木胤継の血脈を継ぐ武門の出であるところから武家の尊崇が厚く、そうしたことから、法華一宗の会席にも中山の貫主は身延久遠寺の貫主の上位に着座するなど、宗門の慣習にそぐわないこともあり、また、天正年中(一五七三~九一)京都頂妙寺の日珖から度々強く隠居を求められたことなどもあって、ここに日俒は自分の隠居と同時に、釈尊・祖尊・日常尊の三像も共に移遷することを条件に、東福寺へ移ることにした。
 そして、かねてより親交もあり、当時関東のおよそ全域を支配していた北条氏政に寺地を所望し、台所料として十五石の寄付を得、場所を丸山(現在の位置)へ引き移して寺号を「正東山日本寺」と定めた。時に天正十五年(一五八七)のことである。
 氏政とのかかわりを示す古文書の写しが今も保存されており、次のように記されている。
 
 中山(富木氏を指す)去甲子(一五六四)甲之台一戦ノ砌始成陣所 以来度々在陣 別而馳走之間多年入魂 只今号其元之地隠居之由 当寺中永代守護可為不入 若横合非分令出来者為先此証文可有披露候 速ニ可遂糺明候 仍後状如件
   天正十五年丁亥十一月廿二日                           氏政(判)
     日本寺
 
 かくて日俒は、自余の宝物・尊像とともに弟子日典を連れ、以後相次いで住持することになるが、旧寺の東福寺の塔中覚応坊を房谷というところに移し、「常高祐山東福寺」の山寺号を付けた。これは旧寺の山号に「常」の字を加えて、日常・日高・日祐の三祖を顕彰したものである。
 日俒・日典が当寺へ隠居以後、近所の村人や近郷の人たちは、日常上人の子孫であるということもあって大いに敬い、これに帰依した。そして年々衰えてゆく中山法華経寺に対し、当寺はますます繁栄の一途を辿り、北条氏滅亡の後関東の雄となった徳川家康からも、次のような朱印状を下されている。
 
   寄進      日本寺
     下総国匝瑳郡
     中村郷内
     拾五石事
  右令寄附証
  殊寺中可為不
  入者也仍如件
   天正十九年辛卯(一五九一)十一月日 印
 
 以下秀忠・家光・家綱・綱吉・吉宗と歴代将軍の朱印状(写)も保管されているが、ここにはその記載を省略する。
 また、日俒はその置文で
 
 抑吾山者、日祐聖人御化導之霊場、今丸山引移改而正東山日本寺名。高祖大聖人御相伝之釈尊並御互之生御影奉致安置。且又立正安国論者此宗之肝心、広宣流布之最要也。一宗之血脉者、宗祖大聖人より日常聖人之相承、某日俒迄十一代之正統移此畢ヌ。依之真俗伏而励信力催参詣東之中山ト唱之由也。雖然中山者、高祖大聖人已来之霊場也。敢不弁優劣、倶ニ仰本寺ト可有参詣者也。山谷曠野起塔供養、当知是処即是道場矣。妙法広布真実甚深。
   天正十九年辛卯三月廿日                            日俒(花押)
 
と述べ、自分の考え方を示している。
 当時、折伏主義的な傾向が強かった関東の諸寺・諸檀林に対し、摂受的な法理を持つ日珖は、その勢力を伸ばそうとして、日俒に続いて日典も追放しようとここでまた策動し、文禄二年(一五九三)十二月二十五日、霊宝紛失の件によって日典を公儀に訴えて長州へと追放し、自らは日俒・日典の後に衰微したといわれる中山法華経寺の十二世となり、受派勢力拡大の基盤としたのである。
 日典の代になって寺号を「瑞光寺」と改めていたが、先師日俒は既に隠世、嗣法の弟子もなかったので、信仰の中心人物が追放となった同寺は「その後は看坊ばかりなり」という状態になった。看坊とは、留守居をする僧のことである。