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中村檀林開講

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 日俒を強迫的に隠居させ、日典をも追放へと追いやった日珖と日本寺の軋轢は、後に中村檀林開基から飯高に帰り、同檀林四世となった恵(慧)雲院日円の暗殺、という事件の遠因を内蔵しているのである。
 寺号も旧称の「正東山日本寺」に復し、日蓮宗僧侶が勉学するための檀林となったのは、この日円のときからである。
 日円は、千葉氏の末裔椎名五郎左衛門の子として、永禄十年(一五六七)、飯高村(八日市場市)御堂谷に生まれ、七歳のとき同村妙福寺に入り、十歳で得度。「天資甚だ敏悟にして、一を聞き十を知るの材あり」といわれた。
 天正元年(一五七三)に日統が開いたといわれる飯塚檀林(同市)で、日統の友日生に教えを受け、天正八年(一五八〇)に日生が他派の迫害のため内山に移り、さらに飯高の妙福寺へ転じたときもこれに従った。
 天正十年(一五八二)日生は請われて京都松ケ崎檀林の化主として再び故郷に帰り、高弟日尊がその後を継いだが、日円も十九歳のころから諸部を講授するようになった。
 慶長元年(一五九六)三十歳。「困学至誠、悟入力を得、弁華機鋒会上敵無し。ここに師徒各草扉を卜し、講習既に若干の星霜を歴(へ)ると雖も、只是れ私築にして未だ天下に公すること能はず」と。
 この年、日蓮宗門唯一の飯高檀林(妙雲山法輪寺。今は「飯高寺」と改称)が公許された。(寺伝に、天正十三年教蔵院日生の開基にして、十八年蓮成院日尊之が開山たり。当時堂宇は飯高城主平山刑部の建てし処と。)
 慶長三年(一五九八)日尊は飯高から江戸池上本門寺の住持に転じたが、ここで、次代講主の座をめぐって学僧や信徒の間に紛争が生じたのである。すなわち日道(法雲院)を推す派と、このとき首座となっていた日円を推す派との争いである。日円はこのとき「道公もと余より長ぜり、なんぞ長幼の別を忘れ、これを除(お)いて講席に階(すす)むことをせんや」と諭したが、衆徒はこれをきかず、党を結ぶに至った。
 これによって日円は、自分の身を退くしかないとして、ひそかに逃れて西谷の柳下平右衛門宅にその身を寄せ、次いで北場浄妙寺に入った。しかし、その徳を慕って教えを乞う者の訪れが多く、遂に幽谷の勝地丸山の瑞光寺を再び日本寺と改め、ここにおいて開講することになったのである。これが学室中村檀林の創始である(慧雲円上伝)。
 一方飯高檀林では、日尊の後を日道が継いで講主となったが、在講わずか一年で身延山十九世となるに及んで、再びその後任をめぐって紛糾が生じた。京都本満寺の日重と、日円のいずれを招請するかの論議であったが、これを聞いた日円は「重公は宗門の先哲であり、宗門での評価も高く、私の及ぶところではない」として固辞し、日重に来檀を請うたが、日重もこれを受けなかった。結局、日重の法友日遠(心性院)が飯高の講主として着任したが、このとき日遠は二十八歳。慶長四年(一五九九)のことである。
 ちなみに、この年日奥が不受不施を唱え、家康がこれを大坂城中で糺明し、対馬へ流罪となっている。
 次いで慶長八年(一六〇三)に、日遠もまた身延に転ずることになり、衆徒をして日円をその後任に請わしめた。日円は再三これを辞したが日遠の要請強く、遂にやむことを得ず飯高檀林第四世の講主となったのである。
 日円は、飯高第四世となったが中村への帰山の望みが強く、しばしば辞意を表わしてはいたが許されることなく、在任三年目の慶長十年(一六〇五)六月四日、六万部の山林において、何者かの手によって殺害されたのである。時に三十九歳であった。
 日本寺には、日常の隠居から日円の死に至るまで三一〇年間の様子を記した古文書があり、次にその一部を示して参考としたい。これは『檀林年貢帳』の表題があり、元禄元年(一六八八)に三十三世日演が記した貴重なものである。
 
一、房谷(ぼうざく)東福寺、本ハ高祐山大善寺ト云寺也。此レ当寺ノ末寺ニシテ、亦当寺ノ檀那等ノ墓を此処ニ立ル也。助兵衛屋敷より此丸山へ寺ヲ引テ以後、日本寺ト改ル也。依之東福寺之名を房谷へ遣スなり。助兵衛屋敷とハ、今幸助・与右衛門屋敷通りより北山迄なり。丸山トハ、今ノ講堂立テル所を云也。
一、当寺を中山と両寺一寺と云事。日俒師、日常師之御隠居所と定メ玉フ。中山日秀師色衣之補任ニ有之。
一、当寺を常師之御隠居と定ル事。中山代々妻帯也。而ルヲ日珖師歎之、三ケ寺輪番之訴訟を企テ俒師を退院セシメ給フ。其時俒師ノ云、常師ヨリ以来師弟相続テ北山ヲ住持ス、終ニ隠居スルコト無シ。而ルニ汝チ若我ヲ退院セシメント思ハヽ、先ツ常師ヲ隠居ナサシメヨト云。依之、常師正御影[此ハ祖師ノ御作ナリ]、祖師御影[此ハ常師御作ナリ]、並ニ釈尊一体随身ナサレ、当寺ヘ御隠居有之故ニ当寺ヲ常師之御隠居処ト云也。珖師之訴訟ハ東照宮大権現之御代ナリ。奉書ヲ頂戴シテ輪番ヲ勤ムル也。
一、日俒師此山ヘ御隠居之時キ日典師御同道。此ハ御弟子ニシテ亦御子息ナリ。日俒師・日典師相続テ当寺ニ住持シ玉フ。
一、日俒師・日典師当寺へ退隠ナサレテ以後、近所之真俗、常師ノ御子孫ナリトテ大ニ帰依ヲナシ、当寺日々ニ繁昌シ、中山年々衰微ス。依之、又日珖師公儀ヘ訴テ典師ヲ追放シ玉フ。其後ハ看坊バカリ也。是ハ俒師御逝去ノ以後ナリ。
一、只今ノ大門前ノ円師之墓所ハ即俒師ノ墓也。其  之墓モツク、円師之墓所ハ飯高ニ有之。
一、丸山を又従本立名シテ西谷(サイザク)ト云。日俒師此所ヘ助兵衛屋敷より引キ給フ也。日俒師 死去之後、御子息日典師入寺也。追却ノ後ニ日円師御移有之。
一、法兄日因 法弟日円
  生国下総飯高村ナリ
一、坂ノ中道寺ニ俒師随身ノ釈尊有之
一、俒師家を立給時 壺ヲ堀リ出ス、中ニ銭有リ。俒師ノ云、此地当ニ繁昌ス云々。今果シテ尓(しかり)ナリ、故人皆ナ権者ナリト云。
一、飯高盛山妙福寺、本ハ中台ニアリ。中村談林代ニ中山之直末ニナス。
 久保妙福寺、並木城山ヨリ久保ヘ引也。
       法理故本末之義中絶ス。
       元禄四年復根本成末寺手形等有
 (中略)
 和田村福賢(現)寺
 此等ハ当談林之末寺也。
                                           (以下略)
 
 日円の最期については、文献上残されているものは皆無である。ただ日本寺の口碑と中村信徒たちの口伝によるのみであるが、その多くは飯高の学徒たちによって殺害されたものと伝えている。
 先述したように、日俒の隠居・日典の追放を策した日珖は、家康の側室お万の方(養珠院)の外護を得て、飯高を武力によって奪取したとの伝承があり、この確執が殺害事件の一因となったとも考えられる。
 また、日円は、日遠が身延に去るに当たって無理強いに飯高四世にさせられたが、もとよりそれは本意ではなく、中村隠退の意志が固く、再三辞意をもらしているが、万一辞任した場合は、学徒の大半は日円に従って中村へ移り、飯高は衰微してしまう。そこで禁制の不受不施信奉者であることを理由に襲撃したともいわれる。このことは、法論に勝ったためその怨恨から殺害されたという里伝と一致する。
 いずれにせよ、先住の転任に際して、日円が後の講主となることを好まなかった衆徒の中から、その下手人が出たであろうことは想像に難くない。
 日円終焉の地は、現在の飯高小学校校門の南側、県道が十字に交差した所の、字聖人塚の山林中といわれ、この地は後に不受不施信徒が買い取って廟所とし、今も聖地として崇められている。
 前記のように、この事件に関する文献上の記録は皆無である。これは、当時不受不施は天下の禁断であって、一連の事実を明らかにすることは飯高・中村両檀林にとって必ずしも得策でないので、関係者によっていち早くもみ消されたことによるものといわれる。
 それでも中村檀林では、日円殺害当日の血染めの袈裟衣を、毎年の虫干しの日には信者に拝ませたとのことで、明治五年ごろまではたしかに存していたという。このことは、平山亀之助(季則・元村長)が当檀三三二世日淵(清水竜山)に宛てた、昭和十一年四月十七日付の次の書簡によって明らかにされる。
 
 拝啓 日本寺宛十四日午後三時発の御端書に依り、増田上人と共に円尊者血染のけさころも相尋ね候。(中略)円尊者血染のけさころも虫干の節目撃せしもの、小生の外小坂ムメ女は能く記憶し居り、判然わからねど今考ふれば、五条は支那緞子か乃至絢セイゴウ(縫紋にして陰日向あり)とも云ふ品で有りしかと思ふた。血の附着したる処は黒く見えました。ころと裳(も)は別々であり、濃茶色でこはくの様に思はれた。明治四・五年頃でもあったか、新説(シンダンギ)の一番最終の夏の虫干にかけてありましたのを能く見ました。ほんの記憶丈を申上げます。(後略)