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中村檀林と不受不施派

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 日円が飯高へ講主として移った後、その弟子日因(恕南・唯心院。高齢であったところから「阿爺慈(おやじ)」と)が中村檀林の二祖となった。後年この日因が、旧宇を坊谷に移して寺号を初めの東福寺に復し、末院とした。そして、その跡に大講堂を造営し正東山日本寺と称したという。
 日因の後は、日慈(正教院)・日要(顕是院)と続き、この代の慶長六年(一六〇一)には西大頭寮観月庵も開き、次の日在(実性院)まで草創期の建設がなされるのである。
 次いで六世の日樹から日賢・日充へと続くが、日充のとき寛永七年(一六三〇)二月に不受不施派と受派との対論「身池対論」が幕府の命によってなされ、不受不施側からは、池上本門寺へ転住していた日樹、同じく中山法華経寺隠居日賢、中村檀林日充他、受派側からは久遠寺前住の日乾・日遠、上総茂原の日東等が出席した。
 この結果、幕府は不受不施を非なるものと裁定したが、日樹について次のように述べている。
 
   池上日樹違目之事
一、池上日樹今度申立候不受不施之儀者、先年権現様邪義ニ聞キ召シ、日奥を遠島へ流罪被仰付候。然処只今其御さバきを違背申、又不受不施之義申出候事、不届に被思召候付、日樹ハ信濃国伊奈江被御預候。徒党之出家者御追放之事。
一、日奥儀者、伊賀守御詫事申上候に付て、以御慈悲御前へも被召出候処、今度張本人として、権現様御さバきの旨を又致違背、不受不施之儀日樹に申立させ、書物以下相渡、再犯之処、別而曲事事被思召候に付、日奥ハ如最前袈裟衣を剥取、対馬流罪被仰付候事。
   寛永七年四月二日
 
 このように、法理論ではなく、権現様(家康公)の先規によって裁決したのである。そして、日樹と同様に、日賢は遠州横須賀へ、日充は奥州磐城へと流され、ともに法理異乱のゆえをもって歴代から除かれた。
 このことから、日条が六世となり、七世の日豊へと続くのであるが、幕府の圧迫が強く、あたかも燈の消えたような状態で、学徒もその止まるものわずかに二〇余名となり、堂宇も荒れるがままになっていたという。
 次いで、日境(通心院)が八世として飯高から移り、この衰運の挽回に努力し、各方面に新機運の醸成を計った。前述のごとく、大講堂を正保元年(一六四四)に再建したことは特筆すべきことである。
 また、日境と共に飯高から従って来た学徒八〇余名を中心に、東谷に真如庵を興して学僧達の指導に当たった。この学舎は世に東谷(東法眷(はっけん))と称されたものである。この飯高派に対して、衰微の時代に残留していた二〇余名は旧住の日奠・日筵とともに、四世日要が建てた西谷の観月庵に拠って、東西の二法眷と並称されるようになった。
 右の日筵(隆源院)が三十七歳で第十世の化主となり、在位二年目の承応二年(一六五三)に先述の経蔵を建立している。
 このようにして檀林は、次第に外観・内容とも隆盛となり、また、京都本法寺十五世の学林日長が板頭寮において妙玄の講義を始めた(その学舎を後に妙玄院といい、同師を中村玄講始祖とした)のもこのころである。
 講祖日円が不受不施信仰に関連して殺害され、身池対論後三代の講主がそれぞれ流罪となった中村檀林が、どのようにその教義を承けていったかは不明である。しかし、その後も幾人かの流罪者・内信者を出している事実から見ても、始祖の法理は常にその底流に流れていたと見るべきであろう。
 寛文五年(一六六五)十月十九日に幕府は、「不受不施帰伏手形せざるものを罪科に処す」とした。ついに不受不施は禁制宗門となり、寺々衆徒は改宗を誓って赦されるか、または信仰を守るために地下に潜行して内信となるかのいずれかになった。このとき、中村檀林九世であるべき日堯(義弁院)は上総興津の妙覚寺にいたが、同年十二月四国丸亀へ流罪となり、歴代から除歴されている。また同じく玄能(主任教授)であった日述(生知院)は平賀本土寺の二十世となっていたが、伊予宇和島へ流罪となった。
 このように幕府は次々と処断したのであるが、この年の法難を「寛文の惣滅」といい、これ以後ほとんどの寺院・僧侶は改宗したが、当地方においてはなお根強くその教義を信奉する者が多かったのである。
 寛延元年(一七四八)になって驚くべきことが起こった。檀林学頭・不染院日雄(了楩)が「立正護国論」を示して幕府に諫暁(いさめさとす)したのである。もちろん死罪・遠島は覚悟の上であったろう。当時の法中(不受派僧)は諫暁書を差し出すことに意義を感じ、取調べに当たっては激しく抗弁するが、裁許が下ればそれ以上争うことはしない。「有難く」受けるのである。
 日雄は、寛延四年(一七五一)になって、八丈島へ遠島を申し渡されるが、檀林学頭の身でありながら日奥門流と称して不受不施を主張し、『不染世間法記』『正法伝弘決』を著わしたりして、公けに反抗した罪を問われたものである。
 その流人帖には、
 
一、国家一統不受不施ニ可御仰付、御停止承知不仕、諫暁書差出候ニ付、遠島仰付。下総国香取郡中村檀林正東山日本寺学徒
  寛延四未年四月十日  了楩
 
とあり、流罪となってわずか二年後の宝暦三年(一七五三)十二月八日八丈島で没したが、このことによって、同檀林九十世の日厳(体智院)は、「中村檀林永代不受不施禁断之事」をすべての学僧に対して厳達している。ここに、その内容を読み下し文に改めて載せる。
 
 わが正東山日本講寺は、権現公(家康)より代々御朱印の地領を賜わり、すなわち受不施山であることは明白である。最も高祖(日蓮)の正宗を守り、開山日円師以来、歴代は連綿として其の学業を継承し、永く法灯をかかげて来た。若し法義に違背する者は、日樹・日賢などのように公けの歴代から除かしめた。いわんや書生の徒においておやである。
 然るに了楩(日雄)は、自ら法敵・祖敵なるを知らず、ひそかに公所に訴え、不受不施邪流を興そうとした。実に法義にもとるのみか、天下一統の法度を犯した天下一統の法度者である。(中略)ここに、かの邪流に迷い天下の制禁を犯すことのないよう、条目を定める。
 
と述べ、以降、箇条書きで、
 
一、若し法義にもとり、あやしげな者があれば上下の差別なく相互に吟味をし、その大頭か能従へ相談すべし。もし不吟味であれば、その法眷ならびに能従の落度とする。
一、大衆の中に、もし不受不施の邪義を企て公訴などに及ぶ者があっても、その法眷・能従は引受けてはならない。化主並びに列座が苦労することである。
一、当山の学徒で、もし檀外に於てかの邪流をひそかに流布し、説法などする者を見聞きしたときは、速かに知らせること。
一、今後学徒の中で、もし邪流の者があったときは、その法眷中で相糺して列座へ申し達し、早速触頭へ届け出よ。公儀で吟味の時はその法眷並びに能従が召連れて出府すること。
 右の条々慎しんで相守り、若し違犯する者は法華経中一切、三宝諸天、善神別、鬼子母神、三十番神、鎮守妙見大士、七面大明神、高祖日蓮大菩薩、檀林開基日円上人の御罰を蒙り、現在に於ては沙門の冥加が尽きて大重病を受け、未来に於ては永却に地獄に堕ちるものである。仍て起証文如件。  寛延三年(一七五〇)庚午七月下旬
 
 このような化主の厳達がなされたが、これ以後も、一一九世日理(教示院)のとき玄能の地位にあった日超(本如院)が、当地方における不受不施の中心的寺院であった島の妙光寺(現在の正覚寺)に住持するなど、幕府の弾圧がどのようであれ、不受不施信奉者はその跡を絶つことがなかったようである。