山門左手奥に歴代先聖の廟所があり、墓碑が整然と並んでいる様子は前述のとおりであるが、その正面にひときわ目立つ碑が二基あり、その一は日祐のもので、「当山開基日祐上人 応安七甲年(一三七四)五月十九日 下之総州香取中郷正東山日本講寺 初転法輪一結 五十五人徒衆謹建立之 元禄二年(一六八九)五月十九日」。
他の一は日円のもので、「初祖恵雲院日円聖人 慶長十乙巳年(一六〇五)六月上旬四蓂 奉唱題目一万部円師謹中」と刻まれている。
なお日円墓所は、その終焉の地とされる飯高の聖人塚山林中にあることは既述のとおりである。
また、日珖によって隠居を強要され、当寺へ中山寺の什宝と共に移った日俒の碑は、山門外の参道にあり、三層の台石上に建つ一メートル余のもので、正面に「当山中興日俒聖人 慶長三年(一五九八)五月二十九日」とその寂年を刻み、左側には「延宝七年(一六七九)六月 新説僧中始立之」、右側には「文化八未歳(一八一一)四月 再営之 新説 一結」の文字が見える。