参道をはさんで経蔵に相対し、二重扇垂木の高楼がそびえている。本堂内にある棟札によれば、「維時享和第三癸亥(一八〇三)龍集五月吉辰 下総中村正東山日本講寺鐘楼棟札 鐘楼一宇建立之 四老光天 当役観如 板頭快通 三老観嶽 五老海山 大工棟梁飯田儀兵衛 同脇矢城荘左衛門 木挽岡村長兵衛」とあり、一八七世日明(頂珠院)のときである。
この棟札に名前の見える棟梁飯田儀兵衛は、南中・芝に住む大工で後に名工といわれ、幼名を佐与吉といい、次のような話を今に伝えている。
佐与吉が八歳のころ日本寺大講堂が建築中であった。弟の子守りをしながら建築場へ来た佐与吉は、あたりに散らかっていた材木の切れ端に祖師像を彫って遊んでいた。
休憩時間に茶を飲みながらその手許を見ていた講堂建築の棟梁文蔵は、その手つきを見て非凡さを見抜き、自分の弟子にと懇望して取り立て、やがてこの鐘楼を建てるほどの棟梁になった。
という。現在も両谷に残る「夫婦神楽(めおとかぐら)」の獅子頭と、本堂前回廊の左右に置かれている木彫りの貘(ばく)一対は、いずれも雄を師の文蔵が、雌を佐与吉が彫ったものと伝えられ、また、子守りをしながら刻んだという二センチほどの祖師像と、鐘楼上棟式のときに使われた弓矢と千両箱は、現在もその子孫によって大切に保存されている。
また、鐘楼の裏側昇り口のかたわらに一基の石碑がある。これが前記した浴室の建築記念碑である。徳川幕府お抱えの絵師探幽を生んだ狩野家の総本家といわれる中橋狩野家の三代当主狩野主信(永叔)、於捨弟姉が、初代安信(永真)の供養のために浴室を建設したときのものである。
寺の重宝として狩野元俊の伝教大師画像、狩野昌運の化主用腰屏風もあり、狩野家と当檀林がどう結びつくかは明確でないが、来詣した水戸光圀との関係によるものといわれる(今井貫首)。
碑の正面には「長源院殿前治部卿法眼永真日実居士」、左脇には「浴室之施主 狩野永叔主信 同姉於捨」、右脇には「貞享二乙丑年九月四日」とそれぞれ刻まれている。
なお、水戸光圀来山のことは前にも記したし、口伝としても多く残されているが、『聚塵綱要 記実録』と表記した文化十三年丙子歳(一八一六)孟冬良辰(十月吉日)の禹住(二四六世寛照院日随代の二老、禹住院禹住日学)署名の文書に「元禄八年(一六九五)正月十八・九日、水戸光圀公入二当山一、中村宿平山五兵衛(五郎兵衛か)方御宿トナル也」とあることを付記し、光圀来遊の事実を証しておきたい。