内部の中央は吹き抜けで、二階部分は周囲だけが畳の敷かれた部屋になっている。一階内陣には、仏舎利・宝塔等が安置されているが、その荘厳さは他に比すべくもない。内陣右側には、弘安四年(一二八一)の日蓮手彫りになる日常上人木像、同じく日常作の日蓮聖人木像、寛文七年(一六六七)十一月に造られた法華玄義の著者天台大師の木像、正徳五年(一七一五)三月十六日造の日円師木像などが整然と安置され、檀林の名残りである「開講」「東」「西」の大額と「曲彔(きょくろく)」(椅子の一種)がある。この「開講」の額は筆止メ光山解師の筆といわれ、裏面は「闕席」と書かれ、化主不在のときに掛けられたものであろう。
日本寺内部
また旧講堂普請の棟札が残されているが、要旨は次のように書かれている。「維時寛政二竜集庚戌(一七九〇)六月 如意珠大吉日 謹拝書之矣大講堂再〓(「興」の旧字)成就之砌営之 四老智山 二老顕是 板頭宣秀 三老隆恵 五老行 」
この講堂建築に当たって棟梁であった文蔵は南中の住民で、その墓は西谷への下り坂東側の檀林境内にあり、「俊棟院考琢日成信士 嘉永三戌年(一八五〇)二月二十七日」と刻まれているが、いかにも大工文蔵にふさわしい院・道号である。
なお、明治二十五年に建て替えられた現本堂の棟梁は、やはり村人の、大工波木亀之助であるという。
本堂右側の軒先には一つの半鐘が吊り下っているが、これには「下之総州中村郷正東山日本寺妙玄講室常住 万治三庚子暦(一六六〇)八月吉日 願主 当板頭職寄観日霊 学徒一結」と刻まれている。