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足跡と変遷

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 さて、草創期の当寺は正和二年(一三一三)に現在の地に建てられ、以来六七〇年に及ぶ歴史を歩んで来たわけであるが、その中で特に記しておきたいことがらを、歴代譜の順を追いながら述べることにする。
 開基日弁は、日蓮に帰依してそれまでの天台宗を改宗し、日蓮宗の布教に努めたので、下方の地頭・平左近将監に追われたわけであるが、これは当時の鎌倉幕府(将軍時宗)が日蓮宗の真奥をまだ深く理解できず、他宗派僧侶の圧迫もあったことから、邪宗として弾圧政策をとったことを背景としている。このとき、日弁の追放とともに多くの改宗者を処罰したが、それに関する一連の事件を「熱原法難」と呼んでいる。
 十一世日護についてはその日記によって述べられているように、元和七年(一六二一)から寛永七年(一六三〇)にかけて客殿・庫裡の建立や屋根の葺き替えまで、大整備事業を手掛けている。
 十五世日雅のとき、中山法華経寺との間に本寺末寺をめぐっての争論があったが、当寺の由来を立証することにより客末となり、諸役一切免除となった。中山住持日演の訴状によると、寛永十九年(一六四二)四月のことである。
 十七世日運は、松崎妙顕寺学室七世・小湊誕生寺十九世でもあった人で、不受不施信奉者でもあった。この代に本堂を建立している。
 廿世日述(野呂・松崎談林化主、平賀十九世)、二十一世日逗(玉造蓮華寺四世)も、ともに不受不施僧である。日述は同派の総本山・岡山妙覚寺の廿四世を歴任し、中村檀林玄能も勤めているが、寛文五年(一六六五)十二月に、伊予宇和島へ流罪となっている。同年は、幕府が不受不施を禁制宗門と定め、峯と両寺一寺といわれた上総鷲山寺当住、隠居も出羽新城に流罪となるなど、当地方は「寛文の惣滅」といわれた法難の嵐が吹き荒れたのである。
 当寺における不受不施僧は、裏面に隠れたものは知るよしもないが、三門を建立して明和九年(一七七二)に没した三十九世日精が同派信奉者であったところからみても、相当長期間にわたってその脈流が続いていたものと思われる。次の一通の古文書がこれらの事情を如実に物語ってくれる。
 
   不受不施違乱之時之誓状
一、紙壊文字欠損文言聢ト知レ申サズ 所詮ハ不受不施ノ法理永不可改変之起請文也末ニ時寛文元年辛丑(一六六一)八月吉辰 当山一結之衆檀 敬白
 列名 通正院 円哲 円行坊 神崎正成院 南恵運坊 八刀照元坊 飯高可〓坊 久野潮音寺 俗衆ハ 寺中 松山 鴻巣 借当 大堀 宮 吉田 山崎 神崎 木積 飯倉 笹本 台 林 多胡 小高 片子 本染井 佐野 嶋 玉作 飯高 沢布馬 野手 保田等也
 
 度重なる厳しい弾圧に遭い、そのすべてを秘匿し、碑面の名前まで削り取って埋没した時代に、よくぞこの文書を保管し得たと、驚嘆するものである。
 二十五世日宥代に本堂・諸尊が整えられ、二十七世日如のとき貞享二年(一六八五)に鐘堂と梵鐘、元禄十年(一六九七)に客殿を完成した。この梵鐘は第二次大戦中供出されたが、次の銘が刻まれていたという。
 
   正峰山妙興寺鐘銘並序
 夫当寺者、中老日弁上人所創一乗弘宣之法窟、此境宗門之巨壁也。弘安二年四月高祖親授始祖麻訶曼荼羅及高祖舎利真翰等伝而在此、雖然地在窮僻故伽藍法器未備矧。延宝庚申(一六八〇)之風災殿宇忽廃亡乎奥往天和壬(一六八二)之冬、拙恭興伝燈之職尓来致心於弘法、労身於修営而不安飽、先始庫蔵宝篋次募衆縁而復-興殿宇。然後欲-鋳洪鐘而索武都之檀助柳営之良治、梵鐘亟成矣。然其価未満、時信檀高橋氏捨黄金若干之。於是運載而筍〓、貞享乙丑(一六八五)秋七月二十二日設法会之慶讃矣。嗚呼我願既満衆望亦足者歟
 顧夫拙鋳鐘三矣。其一者豆州雲舎妙本寺、次上野沼田妙光寺、三者今所鋳者是也。不知何因縁矣。夫為梵鐘之徳、廣在具典不可致枚挙枝苦啓蒙報時集衆之勝用実梵宮之不可廃重器也。若夫摧劔輪絏械之顕益経伝所記也。况亦善開会之妙用乎然則為之捨財之士尼其福趣菩提何疑事畢。欲其始卒自忘固陋而別誌又為之銘曰、四百年来寺時哉。掛華鯨月心頭浄和風耳根清
   侵暁驚残夢昏 覚無住若干幽趣罪於火域昔椎求大乗 今鳴弘玄名今昔皆妙法流転在此聲
    貞享二乙丑年(一六八五)七月日
                            下之総州香取郡中村郷正峰山妙興寺
                                        二十七世本寂院日如誌
                                     御鋳師江戸住人 田中丹波椽
 
 次の二十八世日是のときには、浅草妙音寺で出開帳をしている。
 三十世日元は中村檀林日芳が化主であったとき同檀林の玄講であり、次の三十一世日精は檀林の三十一世となる、というように、このころから当山歴代と中村檀林化主との交流が続くようになっている。すなわち当寺三十二世日遂は檀林五十六世、三十五世日豊は檀林六十九世日恵代に玄講、三十六世日賢は檀林七十六世となっている。三十七世日淳は宝蔵を建てて檀林九十三世に、三十八世日廷は鐘楼を建立して檀林九十六世にそれぞれ就任している。
 三十九世日精(檀林百二十二世)は、不受不施僧であり、三門建立の事蹟を残していることは既述したが、歴代の石塔と並んだその供養碑には、次のように刻まれている。
 
 三門建立 二天造像 諸檀衆霊 宝暦十庚辰才(一七六〇)三月日
 当山第卅九世日精 顕妙寺歴代先師衆霊 顕妙寺衆権衆霊 清凉院梅香院如雪実相院登地院行善院以信日修 平山氏先祖代々 本妙院道融日性日仙聖人妙岸
   明和九壬辰年(一七七二)十月二十三日
                                       世話人 下町 重兵衛
                               当山卅九 正東山化主 了遠院日精聖人
 
 以下歴代を中村檀林との関係を示しながら列記してみる。
 
  四十世 日導 檀林一五三世
  四十一世日恭 同一五六世
  四十二世日義 同一六二世日注代に玄講
  四十三世日選
  四十四世日生
  四十五世日稽 同一九八世日寿代に中席
  四十六世日敬 同二三九世日行代に三老
  四十七世日譲 同二五二世日遙代に二老
  四十八世日生 庫裏 屋敷 新道建立
         京本法寺 中山歴代
         檀林二六五世
  四十九世日慧 同三〇六世
  五十世 日貫 正中山一一一世、日事師範
  五十一世日輝 正中山一〇八世日習高弟、久能潮音寺へ
  五十二世日体 檀林三老准玄、姓麻田
  五十三世日事 飯塚止孝
         明治二十九年春三門家根葺替、中山浄行院ヨリ
  五十四世日要 姓平川、海上山妙福寺ヨリ兼任
  五十五世日等 塩出孝潤、入山時廿六歳
  五十六世日寿 那須体寿、日体弟子
         中村唐竹那須作右衛門次男、銚子妙福寺へ
  五十七世日啓 中西顕忠
         昭和二年一月 鐘楼堂 裏門屋根トタンに改築
         昭和五年七月 山門屋根改築 内陣行堂椽 中二階改築
  五十八世日晃 竹沢寿昌
  五十九世日暁 木村慈雄