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境内の建造物 本堂内陣

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 内陣を拝観すると、まさに悠遠の世界にいるが如くで、多くの尊像が奉安されている堂内は荘厳そのものである。尊像の主なものは御本尊・壱塔両尊・四士弐士四王・宗祖尊像は十四躯、正安二年(一三〇〇)開眼の祖師説法像、日弁作の日蓮菩薩像、宗祖自ら点眼の日法作日蓮像、日蓮御真骨入厨子・鬼子母神・弁財天・妙見大士・天満天神・日弁・日親・幡上日充・大古久天などである。
 ここで、既述のものと重複する点もあるが、当寺古文書『由緒霊宝歴代志』から「霊宝資財之部」の一部を転記してみる。
 
     霊宝資財之部
  一、座像尺尊  伝曰運慶作
  一、高祖肖像  伝曰弁師作
  一、同曼荼羅  弁師ヘ授之
  一、同御真骨  二粒
  一、同無 極状 正峯山四世中納言阿闍梨日法筆
  一、同消息ノ小切レ 五軸
  一、同勝劣鈔ノ切レ 七幅
  一、同安国論    廿幅
  一、同御持扇    一軸
  一、祐師御本尊   二幅
  一、尊師御本尊   一幅
  一、中山十二世暁師 二幅
      内一幅、由緒惣末頭正峯山妙興寺常住本尊也。慶長十己巳(一六〇五)正月廿八日トアリ
  一、日珖僧正証状  客席峯妙興寺ハ於中山座配支(指)揮不可致之証状也
  一、日允本尊    一幅
  一、親師御本尊   一幅
  一、法ケ経 一部  寄附主松平新太郎女本田下総守室トアリ
  一、鬼子母神絵像  一軸 西尾隠岐守忠成筆トアリ
  一、歴師本尊    九幅
  一、[元亀三年壬申十二月廿一日 時茂公軍勢乱妨停止之制札]  一枚
  一、[天正四年丙子正月廿七日 原胤栄諸沙汰不入之制札]    一枚
  一、典師証状 峯妙興寺中山諸役免許ノ事  一枚
         並  式礼末寺任官可為妙興寺ノ計事
  一、同 下総並相州五ケ寺以下諸末寺可為峯妙興寺之末寺事不可有相違之証牒 一通
  一、大久保治右衛門入道道僖留守居指図ノ状 一通
  一、[妙量寺什宝妙量寺十二世饒師自筆  師迹門旡得道ノ法門改悔ノ誓状ノ写] 一枚
  一、同 証状               一幅
  一、同 添翰 中山十九世忠師       一幅
  一、峯妙興寺系譜 三巻 七世行法院日等記
  一、瀧泉寺申状忍師添幹之写        一軸
  一、[天文年中 日忍法流立否 覆書状]   四通
  一、[八世 日現遺状]           二通
  一、高祖御真骨三粒内一粒裕師御懇望寄進ノ送状 忍師御自筆 本紙中山ニ預ルト有リ 其ノ写  一通
  一、足利家系図              一巻
  一、不受不施立否異論之起証文       一通
   右之外諸山先哲之本尊書翰等数多有之
 
 これらの中で、既に補説してあるものを除き、当地方戦乱の際に武将の下した制札二点について触れてみたい。
 その一は正木大膳時茂のもので、文面は次のように書かれている。
 
    制札
   於于峯妙〓寺当手
   軍勢甲乙人等乱妨
   狼籍之事
  右堅令停止畢若至于違
  犯之輩者可被処罪科之
  状依仰如件
   元亀三年(一五七二)
     壬申  十二月廿一日  (寺印)
           (獅子形・時茂印)
 
 勝浦城主正木氏の下総地方への侵攻は天文六年(一五三七)の小見川城攻略をはじめ度々あったが、元亀三年(一五七二)十二月にも里見義弘の命によって北条氏属城を攻めるため、時茂が下総に入っている。この制札はそのときのものであろうが、この当時相続く戦乱から守るために各寺社は、正木一族に酒肴を贈って寺社域の安堵を願ったといわれるが、右の制札は、そのことを立証する一つであり、香取神宮文書(正木時忠の誓書など)とともに極めて貴重なものである。
 もう一つの制札は原胤栄(たねよし)のもので、文面は次のとおりである。
 
  於当寺峯妙〓寺就僧俗共ニ
  不可入諸沙汰殊横合狼籍等
  之儀堅致禁制処也 若此旨
  有違曲輩者則可処罪科也仍
  為後証令啓状如件
  天正四年丙于(一五七六)  原
    正月廿七日       胤栄(花押)
    妙〓寺
      御同宿中
 
 原胤栄は、多古・島の戦いで胤直・胤宣父子を滅ぼした原豊前守胤房の弟遠江守胤平から三代目であり、天正三年(一五七五)に小弓城から移って臼井城主となっている。千葉宗家二十五代の胤富が森山城(小見川)にいて房州の里見・正木氏、常州の栗林氏に対していて、後に正木氏を破ったが、そのとき同族として参戦。正木氏が敗北のあとこの地方一円を守護していたときに下したのが、この制札であろう。
 本堂内陣から外へ出て境内の様子を眺めてみると、かつての隆盛期に見られるはなやかさはないが、森林に囲まれた参道・境内は幽寂そのものである。石段を登りつめたところに総門があり、右手の題目碑には「南無妙法蓮華経 日賢 正峯山 施財信男女現安後善 再興發願主東谷若者中 文化十三歳在丙子(一八一六)正月穀旦四十五世日稽代」とある。
 この総門をくぐり、杉木立の参道を直進すると、二階造り間口一〇・八メートル、奥行七・二メートルというさすがの名刹にふさわしい立派な山門がある。この山門の記念碑は前述のとおりであるが、二階部分の正面に、多古藩主松平氏の家紋である梅鉢紋が付されている。当寺は松平家の菩提寺として、十代勝権以後の墓碑が建てられていることなどから考えて、この山門もあるいは同家の寄進によるものとも思われる。
 山門左手が墓地になっていて、その奥に「開山日弁聖人 応長元辛亥年(一三一一)六月二十六日」とある碑をはじめ、歴代住職の墓碑が整然と並んでいる。この歴代碑に相対して一群の碑石があり、その中で最も古いものには次のように刻まれている。「開山権大僧都日英聖人 応永三十癸夘歳(一四二三)八月十日示寂 安永癸 巳(一七七三)三百五十遠忌之砌建焉 義察日勇」。
 日英聖人とは、南中字郷部(ごうぶ)にあった通勝院真浄寺の開山和尚で、日勇は後の住職である。この真浄寺は妙興寺塔頭(塔中)で、妙興寺は、末寺・支配寺院三六カ寺に関する執務を行い、檀家に対する一般的な事務に塔頭である真浄寺が当たっていたが、明治十七年に廃寺となり、妙興寺に合併されている。
 この墓地を出て東側に鐘楼堂がある。再三修築の記録はあるが、貞享二年(一六八五)建立当時の姿を今に伝えている。梵鐘の銘は前述のとおりで、延宝八年(一六八〇)の大風のことなども記されている。
 鐘楼堂の後方正面には、白壁に囲まれた本堂・庫裡が槇の古木の陰に見える。左に庫裡、右に本堂と続き、本堂裏が宝蔵庫となっていて、既述引用の古文書・寺宝などが納められ、それぞれ元和・寛文・宝暦からの歴史を物語ってくれる。建物の規模については『寺院明細帳』記載のとおりである。
 総門をくぐった南側に小祠があり、これは天満宮である。瓦葺雨覆いの中に石宮があり、「維時嘉永五歳在壬子(一八五二)閏二月廿五日 建立之」と。社前の石造手洗いには「奉納 筆子中 慶応元歳乙丑(一八六五)九月」とある。また社屋の中に永享六年(一四三四)の題目板碑、他に種子板碑がある。この他梅鉢紋入りの献燈の一部もあり、本尊像は本堂内陣に安置されている。この社も、真浄寺にあったのを移したものである。
 右の天満宮と並んで妙見堂がある。亜鉛葺朱塗りの小堂で、やはり尊像は内陣に安置されている。妙見尊はいうまでもなく千葉氏の守護神である。ここで千葉氏と当寺のかかわりを証する一通の古文書を書きとどめておきたい。
 
一、高祖御入滅ト申セシニ、弁師ト天目聖人ト御同心、勝劣法門仰出サル、第二祖忍師御法門可改之云云此条口伝アリ   。衆旦不承引之申間、終ニ御出行下総千田庄千葉胤貞ヲ父宗胤信仰云云憑御(たのみ)申千田庄へ御移。中山ヲ憑御申御牢人而妙〓寺ヲ御建立御住也。峯ヨリ西郡へ御越 五ケ寺御建立ト云云。日能日曜御代マテハ西郡真俗峯へ参詣有リト云云。日曜廿年西郡御相即 テ而日乗日曜御不和、依テ乗公別メ中山ヲ憑ミ御申有リ中山ヨリモ別 御用等有之。雖然世出共ニ曽末寺ノ如ク御自用ノ義無之。御用ノ時ハ導師御談合候。然者如開山忍師上人東西之諸寺日等一人而合相即之、曜乗両方御不和之儀此度令御和融候。忍師以来代々御法水ヲ守リ、可期霊山参詣事候
   天文二年癸巳(一五三三)五月廿六日
                                     (第七世)行法院日等 在判
     玉林坊
  明云 乗曜二師曜師ハ第五世也 乗師ハ系図ニハ載トイヘトモ歴代ニハナシ 西郡 御相即 可考也
 
 二世日忍が千葉胤貞を頼ってこの地へ来て以来の深い関係が続いていたのである。なお制札を下した原胤栄も千葉氏の一族であることは前述のとおりである。
 この妙見堂は、かつては境内東方の林中にあり東谷住民の守り神となっていたのを、明治二十一年に移したものである。