寺記によると、
貞治三年(一三六四)五月創立ニシテ、大僧都日朝上人ノ開基ナリ。同僧ハ同郡嶋村妙光寺、多古村妙光寺及ヒ当寺三ケ寺ノ開祖ニシテ、応安六年(一三七三)五月廿五日八十歳ニシテ入滅セリ。
と、由緒についてこのように記している、
日朝は、上総茂原城主斉藤遠江守兼綱が、のちに出家して常在院日朝と改めた(『多古・妙光寺沿革』『日蓮宗寺院大鑑』の妙印山妙光寺と常在山藻原寺の項。『香取郡誌』)とも、斉藤兼綱の子である(日本寺三十四世取要院日言記の『妙印山縁起』)ともいわれ、その没年についても弘安六年(一二八三)五月二十五日(『妙印山縁起』『日蓮宗寺院大鑑』の妙印山妙光寺の項)、応安五年(一三七二)五月二十五日(『同大鑑』妙印山妙暹寺の項)、応安六年(一三七三)五月二十五日(『同大鑑』竹林山妙光寺の項。『竹林山妙光寺記』)と、三説がある。
茂原藻原寺(そうげんじ)(もと妙光寺、明治二年に藻原寺と改称)記によると、建長六年(一二五四)に領主斉藤遠江守が城内の草庵に宗祖日蓮を迎え、一族をあげて帰依したのがその創まりで、建治二年(一二七六)十一月十二日に法堂を建てた。のちに兼綱は得度して日朝となり、藻原寺(旧妙光寺)を子に託し、弟兼継とともに染井原に法堂を造営して、祖師尊像(肉鬚祖師)を安置、千田庄一帯の中心道場になったという。
この地方に来たいきさつの詳細は不明であるが、宗旨弘宣に熱心で、下総に来たのもそれを目的とし、右の三妙光寺を創建したものであろう。
この地は、その字名が物語るように周囲一帯は竹林であり、多古藩ではここの竹をもって用材としたらしく、次のような記録が残っている。
覚
一、馬 拾疋 南中村
一、馬 四疋 並木村
右明十五日南中村唐竹権右衛門方より、小唐竹(おしぷく。屋根用材)拾四駄、多古村大原内牢屋鋪江付入可被申付、外ニ小唐竹七拾本同所より峯妙興寺迠、南中村人足ニ而相送リ可被申。 (以下略)
巳九月十四日 多古役所 印
南中村
並木村
名主
組頭