この山門下に題目塔があり、次のように刻まれている、「南無妙法蓮華経 銘曰善根苟種仏果然成金剛之体不圯弗傾 文政四年辛巳(一八二一)正月 廿五世匡弁日宝 北族願喜捨当山檀越信男女等 妙光寺」。
山門から眺めた境内は、その面積四〇二坪で、正面の本堂は十二世日静(境智院・寛保二年(一七四二)没)のときに建てられたというが、近年改修されて新しい装いとなった。
本堂左手の墓地入口に一段と小高い丘があり、そこに小社屋がある。これは妙見堂で、寺伝によると寛永九年(一六三二)に住職日大が勧請したものであるという。この地には千葉氏に属していた大堀城の那須氏が、天正の落城と同時に隠退して土着帰農したとの口伝があり、千葉一族の守り神である妙見尊とともに唐竹に逃れ、後に一宇を建ててこれを祀ったものであろう。
また、鏑木の平山庄九郎(満貞、壺岡城主季邦の孫。鏑木代官職満仲の養子)が建立したという妙見堂についての古文書は後述するが、現在も那須一族によって毎年正月三日に備社の行事が行われている。
本堂西側は森の繁みが深く、その中が墓地になっていて各氏の墓石が静かに佇んでいる。この奥正面に鏑木平山家の始祖図書の墓が左右二基の笠塔婆とともに建っている。
図書は満(光)政・光高ともいわれ、前記壺岡城主季邦の弟である。『平山家系譜』には、
鏑木平山初代光高。図書ト称ス、永禄七年(一五六四)中村壺岡城ニ生ル。始メ嶋村塙台ニ居リ、慶長年中(一五九六~一六一四)鏑木塙台ヘ移住ス。(土地開拓、明治年代まで水田約五十町歩を所有)慶安四年(一六五一)十二月十九日卒、八十八歳
『古城村誌』には
平山武者所季重第十九代後裔。永禄七年生於下総国壺岡城、閑居多古島村。後更遷鏑木村。慶安四年十二月十九日卒。謚常尊院殿日慶
と、内容的には同じことが書かれている。平山武者所季重・壺岡城などについては、別項によって記述することにし、まず碑文を見てみよう。
その中心の連碑には「妙法蓮華経 慈常尊院日慶位 慶安四辛卯十二月十九日 妙法蓮華経 悲常明院妙尊尼 寛永三丙寅(一六二六)六月十五日」と、図書夫婦が刻まれ、
右の笠塔婆には「妙法蓮華経 正敬院殿慶賛日貞位 承応第三甲午(一六五四)三月二十六日 正信院妙讃日解寿位」。
同じく左には「妙法蓮華経 眞善院日性㚑位 承応第二癸巳(一六五三)四月上院八日 顕性院日徳寿位 平山勘兵衛光貞」とある。
この鏑木平山氏が同寺に何かと寄進をした当時の古文書があるので、次に掲げて参考としたい。
鏑木村平山忠兵衛一党代々
常尊院日慶 慶安四辛卯(一六五一)十二月十九日
平山図書 八十八歳 葬当寺
常明院妙尊 寛永三丙寅(一六二六)六月五日
同内方 葬当寺
正敬院慶山日貞 承応三甲午(一六五四)三月廿六日
平山忠兵衛満仲 葬当寺塋域
(代官職ヲ務メ四十七村ヲ支配ス)
正信院妙讃日解 延宝五丁巳(一六七七)九月九日
同人内方 葬当寺
了法院妙仙日儀 承応三甲午(一六五四)五月廿五日
早尾駿河守野手村代官弥右衛門内堂葬鏑木村
顕正院日徳 万治二己亥(一六五九)六月十日
勘兵衛光貞
真善院日性 承応二癸巳(一六五三)十月八日
勘兵衛内方
常照院湛応〓堂日静居士 延享元甲子(一七四四)七月二十日没
平山久甫 七十一歳
(満篤。忠兵衛、図書・久甫等ノ称アリ。家ヲ弟満清ニ譲リ、後西院上皇ニ仕ヘ奉リ功績多シ、銚子市荒野ニ海上山妙福寺ヲ創立、田二町八反八畝十六歩ヲ寄進ス『鏑木平山氏系譜』)
(注)この妙福寺へ、唐竹那須作右衛門次男で峯妙興寺五十六世となった日寿(本祥院)が、大正十四年二月に転住している。また、『房総叢書八巻・荒野村(銚子市)妙福寺の妙見宮縁起』に、「正徳(一七一一~一五)の頃、当国鏑木の郷士平山図書といふ人此の地に守護神を勧請し、伝燈長久を図らん念願にて、其の事を多古城主(松平勝以)に告げ、彼の尊像を移し奉らん事を乞ふ。城主も深く信を感じ給ひ、思念し給わく「吾藩中にありては唯一城を利し給ふのみ、若し精舎に安置せば、神光普く照して利益大ならん」と。遂に許諾し、共に仏法光現・武運長久を祈りて、正徳乙未のとし(一七一五)遷座の式をうながし、当山伝法の守護神となし給ひぬ。尊像は相伝へて云ふ、聖徳太子の直作なりと。経主宝殿の額字は、人皇百十二代後西院天皇の皇女宝鏡寺宮徳巌親王の御染筆なり」とある。
(注)明治二十六年に銚子妙福寺三十八世日要が記した略縁起には、「抑当山ハ当国多古領入山崎ニアリ、密宗ニシテ般若寺ト曰フ。時ノ住僧圓學中山三祖日祐上人近里ニ弘化シ、道行高潔ニシテ衆人皆伏スルヲ聞、行テ問難往反遂ニ心服シテ師ノ法ヲ受ケ、寺僧共ニ宗ヲ改メ、後妙福寺ト称ス。
安置奉ル妙見大士ハ聖徳大子ノ彫刻ニシテ、本朝北辰尊像ノ始メナリ。然ルニ源満仲公深ク尊信シテヨリ代々源家ニ伝リ、右大将頼朝公ニ至ル。
其後加藤清正公ニ伝リ、三韓征伐ノ時奉持シ軍中数々奇瑞ヲ感ス。帰陣ノ後是ヲ太閤秀吉公ニ譲ル。秀吉公尊崇シテ大坂城中ニ安置ス。後則多古ノ城主松平家ニ伝リ、感応弥ヨ新ナリ。
然ルニ今ヲ距ル百七十九年前、正徳五年平山久甫等ノ発起ニテ当港ヘ転寺ノ際、天下太平国土安穏広宣流布ノ為メ当山ニ納ム。(後略)」。このように記されている。
常在院了正日山 享保十二(一七二七)七月
久甫長男武左衛門 廿六歳
常恭院法山日正 享保十四己酉(一七二九)九月廿七日
満義弟与右衛門事
正行院妙信日禎 元文三戊午(一七三八)十二月 日
与右衛門内方
常住院妙説日法 寛保元辛酉(一七四一)八月八日
久甫女おちよ 十三歳
縁了院壽榮 寛保三癸亥(一七四三)正月四日
忠兵衛女
信行院妙順日隨 延享元甲子(一七四四)二月十九日
忠兵衛内室
順正院妙朝 延享五戊辰(一七四八)五月八日
忠兵衛女
常信院休円日榮 寛延元戊辰(一七四八)七月廿一日
与右衛門事 四十五歳
鏑木村平兵衛一族始祖図書本当寺之檀越也 其五代孫久甫翁以右檀越買田於中邨而寄附当寺以為先祖冥福 故其歴代一党諸精㚑記之為之回向且使其縁由知後代ノ矣 南無妙見大菩薩
奉寄附 飯土井本田 南中村
平山三郎兵衛
当今新田新家二代目ナリ 三十四世補記シ置
奉寄附 飯土井寺下田 鏑木村
平山久甫
右善願之志者為先祖仏杲菩提報恩謝徳也
維時享保十三戊申(一七二八) 月 日
一、常尊院日慶居士
慶安四辛卯十二月十九日
平山図書君 寿八十八歳
一、常明院妙尊大姉
寛永三丙寅六月十有五日
右内室
一、正敬院殿慶賛日貞居士
承応三甲午三月二十六日
平山忠兵衛満仲君
一、正信院妙賛日解大姉
延宝五丁巳九月上九日去
右内室
一、顕正院日徳居士
万治二己亥歳六月十日
平山勘兵衛光貞君
一、眞善院日性大姉
承応二癸巳十月上八日去
右内室
抑畴昔御先祖代
代当寺建立之檀
越也実有由来布
黄金之旨故其所
以不可有朝暮之
勤業常怠慢而巳
附タリ
常敬院宗心日安居士
寛文十二壬子ノ六月十七日(没)
平山庄九郎殿右者為当寺
妙見建立之主
文化四丁卯載(一八〇七)六月記之
妙光寺二十三世
行淳遭(花押)
平山忠兵衛(正名)様
ところで、唐竹の妙光寺といえば板碑で知られ、その年代の古さや数の多いことでは町内有数である。
板碑とは板石塔婆のことで、板状の石を用い卒塔婆の一種として発生した供養塔であるが、副次的には墓石の意味をもつようになっていく。特に関東地方に多く、中世の石造物、仏教信仰の内容、豪族や武士の展開、諸文化の交流や交通の発達などをさぐる上で、重要な役割をもつものである。
妙光寺板碑
その形状にもいろいろあるが、山形の頂部、二段の切込み、その下の身部には仏像をあらわす梵字(種子(しゅうじ))、仏像仏号、花瓶、供養者、被供養者、年号干支などを記してあるのが一般的なものといえる。当寺の板碑は大体一メートル前後のものである。
六〇〇年を超える歳月を経ているため、既に摩耗のため読み取れない部分も多いが、例えば門前にある一基には、中世この地に君臨した千葉氏の一族胤貞以下の名が刻まれており、他に例を見ない貴重な文化財といえる。
いまここに、失われ、忘れられつつある文化財の行く末を案じながら、その全部を収録しておくこととし、唐竹妙光寺の項を終わりたい。
板碑一
右志為 也
南無多宝如来
(天蓋) 南無妙法蓮華経 (蓮座)
南無釈迦牟尼佛
南無多宝如来
(天蓋) 南無妙法蓮華経 (蓮座)
南無釈迦牟尼佛
応安五年大才壬子(一三七二)二月日 敬白
板碑二
明徳三年(一三九二)十月日
大夫
了願五郎二郎
堯詮彦四郎
堯
南無多宝如来 堯進
(天蓋) 南無妙法蓮華経 (蓮台)
南無釈迦牟尼佛 堯栄三
三四
一結衆〓(等)各敬白 郎平三
三郎
板碑三
右志者為妙秀第三年也
南無上行無辺行〓
南無多宝如来
南無妙法蓮華経 (蓮台)
南無釈迦牟尼佛
南無浄行安立行〓
応永二十一年(一四一四)十月廿一日 孝子〓(等)敬白
板碑四
右為光浄白通三十三回也
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無尺(ママ)迦如来 敬白
応永廿八秊辛丑(一四二一)二月廿三日
南無多宝如来
南無妙法蓮華経 [孝子敬白]
南無尺迦如来
右為妙通比丘尼三十三回也
板碑五
右為妙善妙性女
大持国天王 大廣目天王 初七日
南无上行无辺行〓 二七日
南無多宝如来 三七日
南無妙法蓮華経 [敬 四七日 白 五七日]
南無尺迦牟尼仏 七七日
南无浄行安立行〓 百ケ日
一周忌
大毘沙門天王 第三年
大増上天王 七ケ年
十三年
応永卅三天(一四二六)八月 卅三年
逆修也
慈父
悲母
板碑六
大持国天王(不動種子) 大廣目天王
鬼子母神
右志相迎平
以為日円尊霊
南無 南無日常聖人 平胤貞尊霊
南無 南無日高聖人 同胤継尊霊
南無多宝如来 南無日蓮聖人 同胤氏尊霊
(天蓋)南無妙法蓮華経 (蓮台)
南無釈迦牟尼佛 南無普賢菩薩 同義胤尊霊
南無浄行菩薩 聖人 同胤清尊霊
南無安立行菩薩 南無 聖人 同胤満尊霊
十羅刹女 聖人
応永卅三年丙午(一四二六)九月十七日 敬白
大毘沙門天王(愛染種子) 大増上天王
板碑七
大 (持国天王)(不動種子) 大廣目天王
(風化)
南無妙法蓮華経 (蓮台)
南無釈迦牟尼佛 十羅刹女
南無浄行〓 南無
南無安立行〓 応永卅四年丁未(一四二七) 月 日 沙弥妙通 敬白
大毘沙門天王(愛染種子) 大増長天王
板碑八
大持国天王(不動種子) 大廣目天王
右為 乃至
南無多宝如来
(天蓋)南無妙法蓮華経 (蓮台)
南無 孝子
十月十日
永享五秊(一四三三) 八月十九日
南 敬白
(天蓋)南無妙法蓮華経 (蓮台)
南無釈迦牟尼 三廻也
右為悲 比丘尼十三年
大毘沙門天王(愛染種子) 大増長天王
板碑九(断片)
妙
台大師
悲母妙 (常)
永享六〓(一四三四)八月時正
大増長天王
板碑十
右為妙性尼三十三年也
南無多宝如来 妙立
南無妙法蓮華経
南無釈迦如来 氏女
孝女
永享十年(一四三八)十二月日
敬白
板碑十一
長禄 年(一四五七~六〇)