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由緒・縁起

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 現在は日蓮宗であるが、もとは真言宗寺院であって、日祐がこの地を布教のとき、北場浄妙寺と同時代の貞和二年(一三四六)に改宗したともいわれるが、口伝によると、千田庄領主千葉胤貞は居城を飯土井台に構え、その鎮守神である高田の妙見社の別当常心坊を城内に建てて祈願所とした(また、妙見社西側の寺山に祈願所を建てて別当寺としたとも)が、これが後の徳成寺であるという。そして、改宗と、徳成寺になったいきさつを『日本寺古文書』は次のように述べている。
 
 一、今函中古記を検べ考ふるに、当寺(日本寺)は正中・嘉暦(一三二四~二九)の頃、中山三世浄行院日祐聖人弘道の艸庵なり。曰(いは)く師或時錫を総の安久山に飛ばす。道窪(久保)村を過ぐ。千葉氏胤貞千田庄を領す。人千田殿(又窪殿)と呼ぶ。則ち此処に城廓を築く。偶々祐師を見て将に仏門に入る。師の講説を扣くに、示すに妙法の至理を以てす。千葉氏玆に於て始めて祐師に帰し、氏寺飯出(ママ)井真言寺を法華精舎と改む、今芝徳成寺是なり。且つ二子を投じて薙髪せしむ。師号するに胤貞の二字を以て、其先を日胤と曰ふ、後を日貞と曰ふ。(以下略)
 
 また、徳成寺由緒には、
 
 当寺ハ応安元年(一三六八)四月中山法華経寺第三世日祐上人ノ開基ナリ。元真言宗ニテ南中村飯土井城主千葉大隅守胤貞ノ祈願所ナリ。同年日祐上人宗旨ヲ弘メント欲シ当地ニ来リ、適々飯土井ノ辺ニテ胤貞ニ遇ヒ旨致ヲ説教スレハ、頓ニ帰伏シ二子ヲ日祐ニ投シ出家セシメ、兄ヲ日胤トイヒ弟ヲ日貞トイフ。依之時ノ住職了海法印モ帰伏シ寺ヲ日祐ニ譲リ、改宗シテ了海日了ト名ヲ改メ日祐ノ徒弟トナルニ依リテ日祐ノ開基トス。又日貞ハ師ノ後ヲ続キ宗弘勲功大ナルヲ以テ日蓮ノ真筆首題一幅ヲ授ケラレ、今当寺ニ伝来セリ。
 
とあり、その年代については異論があるようであるが、開基・改宗は日祐によってなされたとする点については、近隣他寺院の場合と同じである。