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由緒・縁起

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 日蓮宗で、檀家は五五軒ほどである。由緒縁起については、火災による古文書類の焼失のため、その詳細は不明である。日本寺三十三世日演による『談林年貢帳』に断片的に記録されているが、当寺の歴史は常に日本寺と表裏一体であり、内容的にも重複するところが多い。
 千田庄領主千葉胤貞が正中・嘉暦のころ(一三二四~二九)、中山法華経寺三世日祐に帰依して猶子(名目だけの子)とし、さらに他の二子(これも猶子とも)を日胤・日貞と自分の名を分け与えて日祐の弟子とした。そして西谷に寺を建てて日祐を開基、日胤を住持として「高祐山東福寺」と名づけ、これをもって創始とするという。
 天正十五年(一五八七)に日祐の子孫・中山十代の日俒は京都頂妙寺貫主日珖との軋轢により、半ば強迫的に隠居を求められ、その子日典を伴って東福寺に移ることになる。このとき中山の什宝釈尊像などもともに移ったので、後に日典は霊宝紛失のゆえをもって追放されることになるのであるが、東福寺に移ってから丸山を北条氏政より譲られ、新しく寺を開いてそれを「正東山日本寺」と名づけ、旧寺となった東福寺の塔中覚応坊を房谷(ぼうさく)(現在の幼稚園舎付近)に移し、「常」の字を冠して「常高祐山東福寺」とした。また、この日典のとき日本寺は「瑞光寺」と改めている。
 この後、飯高檀林講主問題から身を引いた日円は、求めに応えて瑞光寺を再び日本寺に改め、中村檀林として開講するのである。日円は五年の後に再び飯高檀林四世講主となるが、後を継いだ弟子日因は「後年旧宇を坊谷に移して東福寺と名づけ以て末院となす。其跡に大講堂を営し、額して正東山日本寺と曰ふ。正保元年甲申の歳(一六四四)に至りて第八祖通心境師今の地に移し、井を掘り門を開き、鐘楼並妙見祠等を創建して、以て一大伽藍となす。寂乎たる山上、頓に輪奐たり」(慧雲円上伝)、という次第であった。
 当初は柳下平右衛門宅付近にあったが、右のような変遷を経て現在のところに定められたようであるが、境内に建つ開山碑・由来碑の文は次のようである。
 
開山碑
 「当寺開基中山三祖浄行院日祐聖人 当山中興開基日俒聖人慶長三戊戌年(一五九八)五月二十九日 下之総州中村教林  延宝七年己未(一六七九)六月四日 新談義一結之衆徒謹誌之」
由来碑
 「常高祐山東福寺元坊谷ニ在リ、明治四十五年一月十八日火災。堂宇焼失、本山ノ命ニ依リ同末妙福寺(北中字久保三〇二〇番地・現状墓地)ト併合、旧檀林大頭寮跡敷地壱反参畝廿四歩ヲ本山ヨリ下与セラレ、大正六年五月十五日西谷ニ転ジ東福寺ト号ス。今玆宗祖六百五十遠忌記念ノ為メ此地ニ奉遷者也。昭和六年春彼岸会中日、妙福寺東福寺併合始祖、本修院智行日忍」
 
 次に、『中村寺院明細帳』より東福寺・妙福寺の部分を転載し、由緒・合併状況などについて参考としたい。
 
  千葉県管下々総国香取郡南中村字坊谷
  明治四十五年六月廿九日同村北中妙福寺へ合併
                                       日本寺末
                                        日蓮宗  東福寺
  一、本尊   釈迦牟尼仏
  一、由緒   貞治元年(一三六二)創立 日祐上人開基
  一、堂宇間数 間口六間三尺 奥行五間
      四十五年一月十八日焼失ノ旨届立
  一、境内坪数 弐百弐拾四坪 官有地第四種
  一、檀徒人員 百三拾壱人
      (以下略)
 
  千葉県管下々総国香取郡中村〓(南)中字久保 [大正六年九月十三日 移 許可   第  号]
  明治四十五年六月廿九日 同村南中東福寺ヲ本寺ヘ合併財産譲与寺号ヲ東福寺ト改称ノ件許可
                                       日本寺末
                                        日蓮宗  〓(東)福寺
  一、本尊   釈迦牟尼仏
  一、由緒   不詳 [明治四十五年六月廿九日 同村南中東福寺ヲ合併東福寺ト改称ス]
  一、堂宇間数 間口五間三尺 奥行三間三尺
      大正六年九月十三日改築許可
       本堂 弐拾弐坪五合
       庫裡 拾七坪七合五勺
      大正八年四月廿八日 本堂・庫裡改築工事竣工届
  一、境内坪数 八拾弐坪 官有地第四種
                    宅地壱反参畝弐拾四歩
                    (右の一行についての関係文が、細字で朱書きされているが文字不明)
  一、檀徒人員 三拾壱人
     (以下略)